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「愛し合う自信」って一体何のことなんだろう。
「みなさんは大切な人と愛し合う自信はありますか?」
そう質問されたとしたら、どう答えます?
「あると思いたいけど、実は無いかも」とお感じの方もいるかもしれません。
即答で「自信がある」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。
そもそも「愛し合う自信なんて考えたこともない」とおっしゃる方もいるやもしれません。
まぁ、正直そんな事考えてられないぐらい暇じゃない方が多いんだと思うんですけど。
これ、何がよくて何が悪いって話じゃないんでです。
ただ、
「愛する自信とか愛される自信って言葉は耳にするんですけど、『愛し合う自信』なんて聞いたことがないよなぁ」
なんて思いながら、今日のお夕飯を作ってたんですよ(^^;
なので、今日思いついたことをなんとなくコラムにしてみたいと思います。
ただ、このコラムのカテゴリーは「アサノのコラム」。
あくまで僕が思いついたことをダラダラ書き流すコラムであること、ご容赦くださいませ。
お暇でしたらごらんください。
では、よろしければどうぞ。
愛し合う自信とはなんぞや
まずは「愛し合う自信」という言葉について考えてみたいのです。
愛し合う自信とは
「相互に愛し愛されることを繰り返す自信」
みたいなものだと僕は考えます。
いわゆる「愛する自信」でも、「愛される自信」でもないわけですからね。
そもそも「自信」という言葉は
- 自分で自分の能力や価値などを信じること。
- 自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと。(出典:Goo辞書)
という意味なので
愛し合う自信とは
「相互に愛し愛されることを繰り返し続ける能力が自分にある、と信じている状態」
ってことになります。
うん、文字だけで考えると、ちょっと危うい感じがするなーと僕は思いますね(^^;
そもそも愛し合うこと自体、愛し合う双方の同意がない限り成立しませんよね。
その同意がありつづける、つまり、相手は自分を延々と愛し続ける、なんて確証はどこにもないわけですよ。
確かに、人を好きになり大切に思う気持ちや、相手を愛し抜く覚悟って素晴らしいけど、それは所詮自分の中にとどまるものでしかありませんものね。
でもまぁ、これって当たり前の話ですよね。
愛し合うこと自体、一人じゃ無理なんだから。
言い方を変えれば、自分の力だけではどうにもならない、ってことなので。
愛し合うために必要なこと
恋愛でも夫婦関係でも、時には家族間の家族愛的なものも同じなんだろうと思うのですが
そもそも愛し合うために必要なことが双方の同意であるならば
私は愛しているの!
僕は君を愛しているんだ!
という意志も表現も必要だけれど、それだけじゃ全然足りんということなんですよね。
相手もこちらを愛している、という状態でなければ、愛し合うことはできない。
辛いことですけど、「あんたとは愛し合えないよ」と言われたらそれまで、なんですよね。
それでも愛することはできるけど、それは愛し合うことではない。
また、相手がこちらを愛している状態を、こちらからの操作で実現しようだとか、相手を変えようとすることは、ただのコントロールであって、さすがに愛とは呼べないですよね。
そう考えると
「え、そもそも愛し合うってめっちゃ難しいことやん」
なんて僕は考えこんでしまうのですよね。
「私は愛し合う自信があるわ」と思える人であっても、実際は相手がこちらに合わせていただけ、なんてケースもあるわけですし。
「俺は私は愛されるだけの価値がある」といった(社会的)自尊感情が高まっているだけで、誰かと愛し合えるわけじゃない、ってことだと僕は思うのです。
だから、なかなか愛し合う関係に至らずに、その前に諦めてしまう人がいても不思議ではないのかもしれない、なんて僕は考えるのですよ。
愛し合うために今の自分ができること
では、どうしたら愛し合える関係になれるのでしょうか。
愛し合う自信を100%持つことは不可能だったとしても(愛されることは相手の意思によるものだからね)
愛し合うことに関して自分自身が信頼できるようになるんでしょう。
そんな事を考えているときに、ふーっと我が師匠のある言葉を思い出したんですよ。
「人を大切にしなさい」
この言葉、以前の僕は道徳的な意味合いで解釈していたんですけどね。
この「愛し合う自信」について考えていたら、そうか!と腑に落ちたんです。
僕たちが愛し合うには、相手が(人が)いなければ不可能。
ただそれだけの理由で人を大切にすることにはとんでもない価値がある。
言い換えるなら
彼や彼女、夫や妻と愛し合いたいなら、自分に何ができるかも重要でしょうが
目の前の人を大切にすること。
それが愛し合うための条件であり、なんとなく「愛し合う自信」を得る方法なんだろう、と僕は思うのです。
人を大切にすることは、愛し合うために必須なことであり、それをお互いに持ち寄ったときに愛し合う、という状態になるのかもしれませんよね。
だから、人を大切にできない状態にあるならば、確かに愛し合うことはできないんですよ。
どんな状態が人を大切にできない状態なのか
では、どんな状態が「人を大切にできない状態なのだろう」と考えてみたのです。
すると、僕なりの答えはこんな感じになりましたよ。
- 生き方が自立、もしくは依存のどちらかに大きく振り切っている状態。
- 自己否定の気持ちを強くして、自分自身をモノ扱いしている。
- 大切にされなかった痛みを抱え続けてしまう。
- 誰ともつながっていない状態である。
自立が強い人は、自己都合で他人を寄せ付けませんしね。
依存が強い人は、誰に支えてもらっても足りない、と感じますしね。
自己否定が強く自分をモノ扱いしていれば、自分の持てるものの価値なんてちっぽけだと感じるでしょうしね。
大切にされなかった痛みを抱え続けると、もし大切にしてもらえなかったら・・・という不安で相手と関われなくなりやすいですしね。
なにより、今、自分が誰ともつながっていないなら、そもそも愛し合うことの意味すら理解できないかもしれない。
ただこれは、自分自身の心の状態の話なので、
自分自身の選択で整えていくことも可能な場合も少なくないのかもしれませんね。
目の前の人を大切にするってどういうことだ?
最後に、では「目の前の人を大切にする」ってどういうことなのか、について考えてみたいんです。
でも、この話は頭がウニになるほど難しい話だよな、と僕は思うのです。
なぜなら、自分が相手を大切にしている、としても、同様に相手に伝わるかなんて確証はどこにもないからです。
ただ、手がかりは信頼と自分自身の誓い(コミットメント)で、自分なりに相手を大切にしなきゃ、そもそも大切にすることなんてできない。
だから、何をしたらいいかよくわかんない中で、相手を大切にしていくことにもなる。
そんな怖れの中にいれば、「もうええわ」と諦める人だって出てくるのだろう、と僕は思うのです。
*
僕も個人的によく思うのです。
「僕は妻のことを知っているようで、しかしきっと知らないことが山ほどある」とね。
だから、わかんねぇなぁ、と諦めてしまいそうになる僕がいないこともないんです。
でも、分からないから知ろうとする、相手の意見を聞こうとする、という部分もあるんですよ。
分からないから諦めるんじゃなく、分からないからもっと知ろうと興味を持つ。
・・・一番痛い言葉は
「そんなこともわからないの?」「言わなくても分かるでしょ」
かもしれないな、と思います。
まぁまぁ「やる気が失せるよなー」もしくは「俺はエスパーじゃねぇ」と思います、うんうん(^^;
分からないから知ろうとする。分からないから相手に伝える。
お互いにわからないから知ろうとする。
そして、お互いのことをもっと相手にわかるように伝える。
そんなことをお互いに繰り返していると、僕たちには「愛し合う経験値」が積み上がっていくんじゃないでしょうか。
そんな主体的で能動的な体験が、愛し合う自信をなんとなくつくる。
そもそも、「自信」は経験によって培われるものですしね。
ちなみに、「自分は自分でいい」といった自尊感情は共有体験や支え合いの中で育まれるもの。
自分を認めることは重要ですが、愛し合う経験がなきゃ、その自信はやってこないってことじゃないでしょうか。
逆に言えば
「愛し合う自信がなくてもチャレンジすれば、そのうちなんとかなるかもよ」
ってことかもしれませんし。
だとしたら
愛し合うとは、二人がお互いに興味を持ち、知り合い、分かちあうことそのものなんだろうとも思うのです。
そう考えると「愛し合う自信」というものは、一人じゃなく、二人の関係においてのみ存在する概念なのかな、と思ったりするんですよね。
*
昔の僕は、てめぇの力だけでお互いが幸せになれるように、とばかり考えていたんですけどね。
今は「それは無理だ」って痛感しています。
無理です、マジで。相手の力や意思がなきゃ、ホント無理。
できる方法があるなら僕が知りたいぐらいです。
一人では愛し合うこともできないし、自分の考えていることが誰かの幸福と一致し続けるなんてありえないのだから。
僕たちは大切な人と寄り添い、語り合い、よく知り合い、惜しみなく与え、受け取ることで、二人の幸せを作り出していくのだろうな、と思うのです。
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