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そんなに頑張らなくていいって聞くと怖いですか?
「そんなに頑張らなくていいですよ」って言葉があるじゃないですか。
「そんなに無理しなくていいよ」も同じなんですけど、私はそうと言われると、自分がダメな人間なのかな、って感じるんです。
頑張らない私って無能なのかなとか、弱い人間の感じがするんです。
だからいつも「頑張っちゃダメなんですか?」って思うんです。』
こんなお声を伺うことがあります。
そのお気持ちも分からなくもないな、と個人的に思うんです。
頑張っていない自分を感じると「これでいいのだろうか」と不安になることもあると思いますしね。
ただ「頑張ること」自体には、大変な価値はありますよね。
だから、ついつい「頑張っていないと不安」と思う方もいらっしゃると思います。
ただ、この「頑張る」「頑張らない」という言葉って意外と曖昧な意味として伝わりやすいような気がしています。
そこで今日はこの「頑張る」「頑張らない」の話を少し深堀りしてみたいと思います。
「頑張る」「頑張らない」という言葉は曖昧なのだ
そもそも「頑張る」「頑張らない」という言葉は曖昧なのです。
今日はこの話から始めます。
「ランチに料理を食べた」と表現します?
少し想像してみていただきたいのです。
例えば、あなたが今日、ランチに野菜サンドイッチを食べたとしましょう。
すると、他人に「今日、ランチに何食べたの?」と質問されたとき、多くの人が
「今日のお昼に野菜サンドイッチを食べた」
と表現するでしょう。
このとき「野菜を食べた」とはなかなか言いませんよね。
確かに野菜を食べたことには違いがないでしょう。
ただ、食べた料理名がサンドイッチなのだから、「サンドイッチを食べた」となることが多いでしょう。
また、このような表現をする人がいたらどう思います?
「今日のお昼に料理を食べた」
これも間違っていない表現ですよね。嘘はついていない。
食べたのは野菜サンドイッチという料理なのだから。
ただ「料理を食べた」と表現すると、その意味があまりに漠然としすぎてしまいますよね。
「頑張る」「頑張らない」という言葉は何を指し示しているのか
いわゆる「頑張る」「頑張らない」という言葉も、「ランチに料理を食べた」ぐらいの曖昧さを持つ言葉だと僕は見ております。
具体的に
- 何を
- どのような動機で
- どのような目的で
- どのような行動を通じて「頑張ったのか」
ここが曖昧なまま「頑張る」という言葉が使われる事が多くないでしょうか。
この状態で「頑張らなくていい」と言われると、「えー」って気持ちになることが多いのでしょう。
そもそも頑張る意味が漠然としている状態で、誰かに「頑張らなくていい」と言われると、頑張らない意味も漠然とするので「どうして?」と感じてしまうのでしょう。
そして、一般的な観念として「頑張ってないとヤバい」とは思うので、「とりあえずいけないこと」のような気がするのかもしれません
人によっては「何もするな」「やっても無駄だ」といった意味で解釈するかもしれません。
つまり「頑張ってる」という言葉も「頑張っていない」という言葉も、そもそもその意味が漠然としすぎているのでしょう。
なのに、「頑張っていない」と言われると凹み、「頑張ってるね」と言われると何故か嬉しいと思うことがある。
うーん、なんとも人間の心というものは微妙で繊細なものなのでしょうか、なんて僕は思いますけどね。
「何を目的として頑張っているのか」が重要
さて、もし僕が
「そこまで頑張らなくていいかもしれませんよ〜」
もしくは「ここは頑張りどころです!一緒に頑張りましょう」
そんな言葉を使う時があるとしたら、という話を続けます。
僕の場合であれば
「頑張っていない人に頑張れと言う」
「頑張っている人に頑張らなくていいと言う」
そんな基準で話しているわけではありません。
「頑張らなくていいのかも」とご提案するときがあるならば
「今の行動動機、目的で頑張り続けることが、その方にとってデメリットになる可能性がある場合」です。
逆に「今、頑張ることにメリットがある場合」は
自分なりのベストを尽くしてみませんか(いい方法を一緒に考えていきましょう)、といったご提案をさせていただくでしょう。
*
例えば、心が疲れてしまい、気力が沸かなくなっているとき、頑張ることのメリットは低下します。
むしろ頑張れなくなってしまうこと、幸せや喜びを感じられなくなってしまう可能性だってありますね。
別の例で言えば、「今の頑張り、努力、行動の目的が、自分にとっていい効果をもたらさない場合」も「そこまで頑張らなくていいのではないでしょうか」的なお話はさせてもらいます。
これは、その方の頑張りを否定するという意味ではありません。
より自分の目的や希望が達成される方向に進んでいただきたい、という見立てからのご提案なんです。
特に頑張っているときほど、「何を目的として頑張っているのか」が重要になってきます。
具体的な恋愛での事例
例えばこんなケース。
「今、彼がいて、彼のために尽くして頑張っている。
けれど、彼と関わると自分がどんどん傷ついてしまい(彼のために合わせすぎている)
最近は、彼が好きだけど、一緒にいることが苦しくなってきた。」
この場合、僕は確かに「そこまで頑張らなくていいかもですね」とお伝えするかもしれません(そうじゃないこともあるでしょうが)。
ただ、これは決して「彼のことを諦めろ」「安い女・重い女になってるかもよ」なんて意味ではないのです。
二人が同意して関係を結んでいるなら、また、相手に害を与えたり、相手から被っていない、いわば一般的な恋愛の範疇の話なら、そんなことは言えないよな、と僕は思うのです。
ただ、現実的に「彼のために頑張りすぎてしまい、彼のことが好きという気持ちが維持できなくなる」としたら、これもまた解決しておきたい事柄になりませんか?
それもまた切ないことではないでしょうか。
特に「頑張っているのに相手を好きでいられなくなる」という状態がもたらす、自己価値感の低下も見逃せないわけです。
だから、「自分を否定的に見る材料を増やさないメリット」を考えると「そこまで頑張らなくていいのでは」という話になるわけです。
頑張ることが補償行為になっているとしたら
特に「頑張ることが補償行為になっている」場合ほど、このようなお話をさせてもらうことがあります。
補償行為とは、いわば「埋め合わせの行動」。
例えば、
自信がないから相手に尽くす。
積極的に相手に関われないから何でも受け容れる。
相手に嫌われたくないから相手に合わせる。
そんな動機で行動している場合です。
これは自分だけでなく、相手(周囲)のメリットも少ないわけです。
*
例えば、彼女に尽くされている彼の視点で見れば、こんなことも考えられるのではないでしょうか。
「自分も好きだと思って付き合った彼女。
でも彼女は自信がなくて、いつも尽くして何でも自分を受け入れてくれる。」
ここで「そりゃ都合がいいや、依存しちゃおう」と思う男性は、いいか悪いか別にして依存的でしょうね。
多くの愛ある男性は「オレと付き合ってることが彼女のためになっていないんではないの?」と思うかもしれません。
彼もまた「あなたのためになりたい」と思っているなら、そう思うかも。
もちろん彼女の彼を思う気持ちそのものは、決して否定されるべきものではないんです。
が、彼女の気持ちの裏側に、彼には伝わらない・伝えていない事情(補償行為)があると、彼も喜べなくなることが多いです。
要は、「実は自信がなくて、彼のことを喜ばせたいけれど、十分に喜ばせられないような気がする」という気持ちを伝えていないとしたら。
彼はその事情がわかりませんから、彼女の行動を見て不審を抱いたり、頑張り続ける彼女を見て申し訳ない気持ちになる可能性だってあるわけですよ。
その結果、距離をとったり冷たい態度を取る男性が出てきても不思議ではないんですよ。(彼がそもそも彼女のことをそこまで好きじゃなかったという場合は除く)
つまり、自分の行動動機が「与える・愛する」なのか。
それとも、自分の中で隠したい、不安・怖れ・劣等感(など)なのか。
この違いが、与える行為、補償行為の違いを作るのですね。
そしてもどちらの場合も「彼に(自分の気持ちや行動を)受け止めてほしい」と思うわけですよ。
ただ、彼に受け止めてもらったあとの実感は、前者は「喜び」になり、後者は「ホッとするだけ」となりやすいでしょう。
これもまた僕たち自身の行動動機によってもたらされることなんです。
「そんなに頑張らなくていい」は「必要なものと向き合いましょう」という意味
さて、ここからが今日の話のまとめです。
「頑張ることが補償行為になっている」ということは
「自分の中になにか向き合えない要素がある」ということを暗示している
と言えるでしょう。
もちろん「向き合えないこと」が悪いわけではありません。
非常に心のバランスを崩しているときなどは向き合えないものだから、向き合えないことで悩まれる必要もありませんよ。
それは多く「頑張り続けていないと〇〇な自分になってしまう」といった不安や怖れが示していることが多いです。
例えば
「仕事を頑張り続けていないと、価値がない自分になってしまう」
「相手に尽くしていないと、愛されなくなる」
「綺麗でいないと、自分は魅力的ではなくなる」
といった怖れですね。
ただ、「相手のために尽くす」ことで愛される可能性」も、「尽くさないことで愛されなくなる可能性」も、どちらもゼロにはならないし、100%そうだとも言えないですよね。
強いて言うならば、「相手との信頼関係次第」ではないでしょうか。
どれだけ自分を綺麗に保てていても、信頼関係がないなら、関係は継続しないでしょうし、綺麗でいないことで愛されなくなるとも限りません。
つまり
「素晴らしい自分になること」と、「なりたくない自分にならないこと」は違う。
この違い、なんとなくご理解いただけるでしょうか。
これは行動の目的を、喜びを動機とするか、それとも怖れを動機にするかの違いです。
もちろんどちらでも「結果」は出せると思います。
が、それを得た自分が感じる感情、感覚、主観的な幸福感が変わるんです。
この不安や怖れとどう向き合い、自分をどう感じていくかの違いで、確かに自分自身が変わっていきますよ。
つまり、「そんなに頑張らなくていい」という言葉は
「自分が幸せになるために必要なものと向き合いましょう」という意味。
僕はそう解釈しています。
とはいえ、だからといって「すべての怖れや不安が消える、手放せる」とまで僕も考えてはいません。
が、上手に付き合える程度の怖れであれば、現実に感じる「困り感」「うまくいかない感」は減ると考えるのです。
ここはもう、個人のお気持ち、判断かな〜と思うのですけどね。
そもそも補償行為は誰にでも起き得ることです。
だとしたら、そこを問題にするのではなく
「今の困り感や生きづらさを手放して、幸せや充実感を実感する」ことを目的にしてみてはどうでしょう。
すると、「頑張らないこと」にも納得できて、よりよい選択を取りやすくなるかもしれませんね。
【余談】頑張ることが「絶対的な正しさ」とはならないこともあるよ
最後に、恋愛の事例について書いたので、少しだけ脱線します。(長くなる予感(^^;)
日々、恋愛やご夫婦のカウンセリングをさせていただいていると、思うのです。
「好きな相手のために頑張ること」は本当に素晴らしいことだ、と。
ただ、水を指すような話で申し訳ないのですが、それが「絶対的な正しさ」となるわけでもないのです。
*
例えば、「もう彼女のことを愛せない」と苦しい思いを抱えている彼のために、尽くそうとする女性がいるとしましょう。
これ、「彼を愛すること」を「お昼に料理を食べた」レベルの広い解釈の範囲で捉えるならば「正しいこと」になるでしょう。
が、彼もまた「彼女のことを真剣に考えて、今のままではお互いに幸せではないと考えている」としたら。
それもまた否定されるべきことではないだろうと思うのです。
そして彼もまた彼女が傷つくことにより、ジレンマを抱えるでしょう。
つまり、現実の恋愛では「相手を思う気持ちがあれど苦痛を与えることもあり得る」でしょう。
かといって、そこを過剰に気にしても自分が辛いだけ、というシーンも多々ありえるとも思いますけどね。
また、相手を思う気持ち・覚悟も「補償行為」なのか、「愛」なのか、の違いによって、相手を愛する道中で感じる感情が変わってきます。
やはり補償行為であればあるほど、自分と相手の苦しさは増します。
一方、愛はただ与える行為なので、相手が受け取らなくても、自分も相手も「傷つかない選択」を取るでしょう。(葛藤はすると思いますけど、結果が違うという意味です。)
ただ、このあたりの話は非常に繊細なもので、非常に解釈が難しいです。
心理というより、個人の経験、思い、哲学、信念のようなものがかなり影響しますからね。
だから、そもそも「何が愛で、何が補償行為なのかの線引き」自体が難しい。
自分で線引することも、他人が線引することも難しいことなんです。
だから、結局は自分が「どうするか」を腑に落としていくことになるんだと思うんです。
ただ一つ、心理面から言えることがあるとすれば
今、相手と関わることで、自分や相手が苦しむなら、それは執着か、もしくは自分の欠点を埋め合わせる補償行為である可能性はあるかな、と思います。
もし、考えの落とし所があるとしたら「恋愛は一人で行うものではない」ということかな〜。
つまり「自分の気持ちだけでなく、相手との相互の理解が成立しているかどうか」でしょうね。
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