浅野寿和さんへの質問
いつも心の栄養、カウンセリングをありがとうございます。一つ質問がありメールさせていただきました。
カウンセリングで浅野さんが、パートナーは「その人の傍で誰も言ってあげられないことを言ってあげられる存在だ」とおっしゃっていました。私自身も、超超自立の彼に、「あなたの存在はそれだけで価値があって素晴らしい」ということを伝えたいんだっていうことが腑に落ちました。その事に彼が抵抗するとしても、それが事実なので、そこまで思える自分を誇りたいと思います(笑)
浅野さんからの宿題(?)で、自分の存在が喜びなんだということを、繰り返し自分の心に届かせるようにと言われました。実際届いてきているのか、以前言われた私の周りのアクリル板の意味もわかるようになってきたような気がしています。うまく言えないんですが、周りの人に私のことを知ってほしい気持ちが強くなってきてる気がしていて、彼に会いたい気持ちがあふれそうになる時もあります。
そこで、最近よく浅野さんがブログで言っている、自分には価値があることを伝えていくことに加え、何か心を開くエクササイズはあるのでしょうか?
ネタ募集ネーム:アルパカさん
いつも心の栄養、カウンセリングをありがとうございます。
こちらこそ、いつもありがとうございますm(_ _)m
心の栄養、いい言葉ですね~。これから自己紹介で使わせていただきますφ(..)
パートナーは「その人の傍で誰も言ってあげられないことを言ってあげられる存在だ」
そうですそうです。
パートナーはときに優しく見守り、慈しみ、その人に誰も言ってあげられないこと(それは価値も、叱咤激励も)を伝えることができる存在だと僕は思っていますよ。
共に生きる、とはそういうことだろう、と。
距離を取り、相手に触れず、気持ちを分かち合わずでは、なんだか一緒いる意味考えちゃいますよね?
情けないところも素晴らしいところも見せあって、言いたいことが言い合えて初めてパートナーなんだと言えるのだと僕は思っています。それは一体感という意味でね。
どこかココロの見えない壁=「アクリル板」
それがない関係性ですよね。
そのためには、いわゆるネガティヴな意味での自立を手放して、真の自立に向かうことが大切なことなんですよ。
ネガティヴな自立とは孤立であり、依存心を隠し持って一人で生きている状態であり、期待と完璧主義が手放せず、理論武装し、自分の正しさを掲げて生きている状態ですね。
真の自立とは、主体性があり、自分自身を信頼し、相互に理解しあい、相手のために与え慈しみ、相手の愛を信頼している状態と僕は表現しています。
自立という言葉にもまぁいろいろ意味があるわけですが、
目安としては「相手の気持ちで自分の気持ちが決まる状態」「人を拒絶している状態」は、真の自立ではないかもね?って感じですね。
まま、ここに書いたことはある意味「意味」であって、自分の生き方としてどれだけの正確性を求めるか、なんてことまで気にしなくてもいいのかもしれません。
生きていて幸せと感じられるのであればそれでいい、と僕は思うんですけどね~。
それが事実なので、そこまで思える自分を誇りたいと思います(笑)
その愛情の部分は誇ってくださいませね~!
周りの人に私のことを知ってほしい気持ちが強くなってきてる気がしていて、彼に会いたい気持ちがあふれそうになる時もあります。
ね、それだけ寂しさを抑えた世界で生きていたって、実感できませんか?
親密感、めっちゃ欲しくなりません?
それが「自然な私」の気持ちなんだと思いますよ。
そもそも僕たちは親密感が大好きですからね!
ただ、「自分を知ってほしい」だと主体性が失われちゃうんでー。
知ってもらえなかった、わかってもらえなかったときに傷つくじゃないですか~。
ここは「もっと自分を表現していこう」「やりたいことして生きていこう」と考えていくほうが前向きな感じだと思います。
そして、寂しさを抑えたその生き方にもね、きっと意味があるんですよ。
特に・・・あなたが誰かを理解するために、この生き方を採用しているってことは、結構な確率でアルアルなお話なんです。
実はここに気づくと、あなたの内面の愛情にも気づくことができるのですけど、まぁそれはちょっと難しい話なので、個別でお話したいところです。
自分の存在が喜びなんだということを、繰り返し自分の心に届かせるように
そうですそうです。
これは、ココロにポジティブな流れを作っていくトレーニングみたいなもんですよ~。
コツコツやってまいりましょう!
この流れを作ることで前向きな気持ちになりやすいものなんですよ。
むしろ自分を否定的に見てしまうことを続けると、そちらが強化されちゃうので、つい物事ネガティヴな感情ばかり選んで感じるのでしんどいんですよねー。
最近よく浅野さんがブログで言っている、自分には価値があることを伝えていくことに加え、何か心を開くエクササイズはあるのでしょうか?
はいはい、いくつもありますよ。
今日は2つほどお伝えしておきましょうか~。
相手の価値を認める
例えば「相手の価値を認める」という意識。
普段から人と接しているときに、相手の意見をまるっと「なるほどね」と認めていく意識付けですよね。
相手の意見を無理やり飲む、ではなく、「あぁそうなんだね」といったふうに反応する。
ハートが閉じている状態ってのは、防衛的で、自分を隠したいだとか、傷つきたくない、と感じているわけですよね。
そこで、自分から相手の意見や価値を認めていく姿勢を続けると、これが「投影」となって跳ね返ってくるようになると思います。
「自分が相手の意見を認めてくれているように、相手もそうなのかもしれないなー」
そう思えたら、その相手との関係性は良好になるだけでなく、こちら側もハートを開きやすくなりますよね~。
逆に、自分が相手を判断していると、相手にも判断される、と感じるので、まぁハートは閉じちゃいますね。
ただ無理して行うと犠牲になっちゃうんで、親しい人や話しやすい人から意識して行ってみるといいでしょうね。
不安・恐れとの付き合い方
あとは
「不安・怖れとの付き合い方」
でしょうか。
ハートが閉じているときってのは不安が強まっていたり、怖れを見ているときでしょう。
不安や恐れを感じたくないから、ハートを閉ざすとも言えますしね。
しかし実は・・・
自分の不安や恐れって「セクシャリティ」と密接な関係性にあるものなんですよ。
一説には「自分が緊張状態に置かれているということは、自分本来の力を発揮するために必要なこと」なんて考え方もあります。
もちろんそれを年中続けると辛いので、そりゃ時には緩めたほうがいいですし、怖れを動機にし続けるとしんどいので長く続けることの是非は検討してもいいんだと僕も思うんです。
ただ、不安や怖ればかり感じていると「嫌だなぁ、感じたくないなぁ」と思いますし、実際に起きて
もいない幻想を見せるわけですよ。
こういった状態になると確かに不安や怖れは嫌なもの、問題、となるわけです。
ががが・・・。
不安や怖れって時には「自分の力を発揮する」材料にもなるんですよね。
むしろ不安も怖れがない状態では、自分を守ることもできないですし。
不安や怖れは「弱さ」の象徴ではないんですよね~。
不安や怖れと「弱っちい」「ダメ」みたいなイメージを持たないことなんでしょうね。
どんな人にも不安があるのにね、それを嫌ってしまうとどうにも扱えなくなります。
僕も死ぬほどビビりですが(笑)ビビリであることをもはや悩みにしてはいないんです。
みんなに笑ってもらってます。
「浅野はビビりやからなぁ~」と。
ときにエッグい怖れがやってきて悶えることもありますが、まぁ一緒続く感情なんてねーよ、と悶ながら開き直ってます(笑)
これは僕の周辺の人には有名な話で、それでもパートナーがいてくれたり、普段から仲良くしていただいたり、人のご縁があることが本当に嬉しいわけです。
ありのままのビビりやすい人間でもええんやな~と思える。
これがココロのアクリル板を外す材料になるわけです。
しかしビビリを恥にして悩んでしまうと、ハートを閉ざす必要も出てくるのでね。
*
そもそも不安や怖れが出てくるときは、自分の意識では感じ取れない「目的」をココロが感じているとき。
そう考えてみるのも一つの方法ですよね。
何も目的がないのに恐れや不安は出てこないものでしょう?
例えば「初めて海外旅行に行く」という目的がないのに「言葉、大丈夫かな・・・」と不安になることはないでしょうし。
「結婚して新しい土地で過ごす」という目的がないのに「馴染めるかなぁ・・・」と考え込むこともない、みたいなね。
自分になにか目的があるから不安や怖れが出てくる。
ならば、不安や怖れに対するイメージを変えておく、ってのも一つの手です。
不安や怖れに「ありがとう」ぐらい言っておいていいと思いますよ。
何か参考にしていただければ幸いです。
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