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最悪な感情や状況に出会わないための反応が視野を狭める?
浅野さんこんにちわ
いつもブログ読んでいます
以前のブログで「判断こそ更に最悪な感情や状況に出会わないための防波堤」と書いている部分が気になっています。
過去に傷ついた出来事がありこれ以上傷つかないために高い防波堤をもっています。
防波堤は自分が頑張ってきた証だと感じますが、今はこの防波堤が邪魔です。
堅苦しく言いますが、判断は意識的になって物事の視野を狭めていて、無意識的になれば視野が広くなり生活が楽になるんじゃないかな、と感じます。
率直な意見と無意識の話を少し聞きたいです。
よろしくお願い致します。
ネタ募集ネーム:根明の根暗さん
根明の根暗さん、ネタのご協力ありがとうございますm(_ _)m
なかなか興味深いご質問をいただきましたので採用させてもらいました。
このご質問、随分と心理について考えられた結果じゃないかなーと思っています。
全然堅苦しくないですよ。むしろとってもいいご質問です。
では、僕が学んだ癒やしや心のあり方について、堅苦しくなりそうですが(笑)ちょっと解説してみたいと思います。
判断とはどんな意味があるものなのだろうか
僕たちはいろいろな判断をしますよね。
あの物事はどうの、この人はどうの。
自分はこんな人間なんです。
男とは、女とはこういったもの。
親とは、家族とは、仕事とは・・・といったふうに。
この判断が自分や誰かを幸せにするものなら、まぁ問題意識を持つ必要もないのかもしれません。
ただ、この判断ゆえに、生きづらくなっていたり、恋愛や対人関係がうまく行っていなかったり、何かしらの限界を感じるなら、まぁこの判断について少し見つめてみてもいいかもしれませんね、と僕はご提案しています。
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例えば、過去にいじめや、友人の裏切りなど、人との関係で傷ついた経験がある場合を考えてみましょう。
この場合、いじめられた経験が辛すぎて、もう二度と同じ思いをしたくなくて、「仲間(他人)なんて信じないほうがいい」と思うようになる可能性って否定できないですよね。
特にいじめのような、こちらに責められる理由が思い当たらないのに、急に辛い目に合うとしたら、辛い気持ちを抱えながら「もう人なんて信じない、信じてもいいことはない」と思うようになることもあろうかと思います。
すると、人は怖いもの、人は自分を傷つけるもの、と判断するようになるって思いませんか?
このように判断というのは、自分自身が最悪な感情や状況に出会わないように作用しているものなのです。
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それからある程度時間が経過して、自分を取り巻く環境が変わって、仲間ができて、自分に寄り添ってくれる彼や彼女ができたとして。
それでも昔の経験(痛み)が残っている、すなわり昔の判断が色濃く残っていて、なかなか人を信じられないでいるとしたら。
仲間や彼・彼女の存在を心から信じられないでいる自分に幻滅しちゃう、なんてことも起こりそうです。
なぜなら、今の仲間や彼・彼女は、自分の味方であり、寄り添ってくれる人だから。
仲間や彼・彼女の気持ちを信じられない自分こそ、裏切り者だと感じれば、そこに罪悪感が伴うでしょう。すると、自分自身を肯定的に見つめることは難しくなるし、その自分を偽るような気持ちを持って仲間や彼・彼女と接しているなら、それはそれで苦しいと思うんですよね。
ただ、この判断は「昔の状況がいまだ続いている」ならば必要なものかもしれませんが、今の自分が置かれている状況・環境が変わり、以前のような「自分にとって耐え難い状況」が過ぎ去っているなら、手放してもいいもの、といえそうです。
今回の事例では、もう一度人を信じてみてもいい、ということですね。
しかし、そのようにアタマで理解できても、なかなかそういった気持ちになれないことも少なくないわけです。
では、どうして昔の判断が今も必要になるのか、といいますと、「心の時間が未だ止まったまま」になっている可能性があるからですね。
感情の話として表現するなら、未だ癒やされ開放されていない「未処理の記憶と、そこに伴う感情がある」ということなんです。
未だ癒やされていない感情があると、判断は強くなる傾向がある
では、この事例の癒やされていない感情とは何を指すのか、といいますと。
まず、いじめられたという辛い経験や、そのとき感じた屈辱感や自分が空っぽになったような無力感になることが多いですね。
どこか自分がちっぽけな存在だと感じてしまう、あの嫌な感覚です。誰もが感じることを拒みたくなる感情ですね。
この感情を二度と感じたくないので、人を信じていないわけです。
が、ここで、自分自身が幸せになる目的を持った上で、自分の気持ちと真摯に向き合いながらもう一度その感情と向き合い受け容れる態度を示すと、次の感情にすすめることがあります。
その次に出てくる感情は「願いが叶わなかった自分が抱えているもの」となることが多いでしょうか。
例えば、本当は仲間と仲良くしたかった。みんなと同じように仲間を得て楽しく過ごしたかった。
それが叶わなかった自分が抱えている無力感や罪悪感などの感情が出てきます。
実は、この思いこそ、最も感じたくないものなんです。
なぜなら、本当は「誰かの喜びになりたかったのは自分自身」で、その目的を成し遂げられなかった自分をちっぽけな存在のように感じているから。
もちろん感じているだけで真実は全く違いますけども。
つまり、人を信じないように、と判断しているとき、実は自分自身が自分を全く信頼できていない状態に陥ってしまっていることが多いのです。
だから、強力な判断によって「自分がちっぽけな存在である」と感じないようにする、といえます。
今回の事例なら「人を信じないことで、自分のちっぽけさを感じないようにしている」感じです。
実際のカウンセリングでならば、今まで封じ込んでいた感情に気づくたびに、何度も何度も涙が流れて、悲しみ、虚しさ、切なさをたくさん感じて解放していくプロセスになることが多い状態といえますね。
すると、ここで「本当の自分の願い」に気付けるようになるわけです。
自分は誰かの喜びになりなかった。仲間が欲しかった。そんな気持ちが自分の中に存在することに。
この状態になってようやく「人の好意」を受け取れるようになっていきます。
仲間が欲しかった、と気づけたから、実は自分と関わってくれた人が今、もしくは過去にいることに感謝できるようになります。
誰かの喜びになりたいと願っていることに気づけたから、パートナーの存在がとても大きなものだと感じられるようにもなります。自分に寄り添い、自分の価値を認めてくれるパートナーにものすごい感謝が湧き出すんです。
ただ、どうしても感じがたい感情を我慢し、抱え続けてしまうと、つい判断が必要になり、人から分離せざるをえなくなるんですよね。
これが「今のさまざまな問題」を作る理由になっている、というわけです。
判断は物事の視野を狭めつつ、自分が誰かの喜びになることを阻むことがある
このような判断に伴う問題は、何もいじめや対人関係だけのものではありません。
例えば、離婚を経験した方が「もう二度と辛い別れを経験したくない」と思うことがあるかもしれませんよね。
すると、自分は結婚に不向きだ、とか、自分はパートナーを幸せにできないからやめておいたほうがいい、と思うようになり、そばにいる人を遠ざけようとすることがありますね。
これは、自分は愛する人の喜びにはなれない、という感情が受け入れがたくて作られた判断、といえます。
多く、この判断の向う側にあるのは「本気でパートナーの幸せを願い、努力した自分」なのかもしれません。
何度も「誰かの喜びになろうとした自分」がいるから、別れが痛いし辛いし、分かりあえないことが苦しいのでしょうから。
このように自分を見つめることは、おそらく本来の自分「誰かの喜びになりたい」という自尊感情を取り戻すきっかけになると思います。
が、なかなか一人では難しい場合もあるかもしれませんね。
多くの人にとって「もう二度と苦しい感情を感じるのはゴメンだ」と思う過去、感情と向き合うにはそれなりの目的と勇気、人のサポートが必要になりますからね。
何より「もう一度自分が幸せになること」という目的は必要です。
今のままでいいと思うなら、苦しい過去を思い出す意味も動機も見い出せないでしょうから。
そもそも、誰かに言われて向き合うようなことではなく、とても繊細で大切に扱われるべき事柄だと僕も思いますしね。
最後に
最後にご質問の
「判断は意識的になって物事の視野を狭めていて、無意識的になれば視野が広くなり生活が楽になるんじゃないかな、と感じます」
という部分に対する僕の答えをまとめますと。
「癒やされるべき感情を癒やして、自分自身の本質(喜び)に戻るプロセスを経ていくことで、判断自体が手放せるようになる」
となります。
ただ、繰り返しになりますが、こういった癒やしは、誰かに言われて行うような性質のものではなく
「自分が幸せになる(それがみんなの幸せになる)」
その目的のもとにおいて行われるプロセスです。
この目的がとても大切ですよ。
自分が幸せになるという目的があるから、自分を見つめ直し、感情を乗り越えていく意味があるのですから。
ただ、僕のカウンセリングに来てくださるみなさんって、とっても謙虚な方が多いから、実際に「幸せになる」という気持ちを、そんなに言葉にしてくだらないだけだと思っているのですけどね。
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