アサノのコラム

全ては「幸せに生きるため」なのである

今日は恋愛心理にまつわるコラムというよりも、個人的な考えをまとめるためにアサノのコラムを更新。

最近特に多いご質問にお答えしようと思うのである。

なお、そもそもこの記事はグーグル検索に引っかかることを願って書くわけでもなく(^^;そもそもインデックス登録させるつもりもない。

あくまで僕のブログを読んでくださる皆様に向けた限定記事である。

また、カテゴリーが「アサノのコラム」であるからして、難しい用語やマニアックな見解についての解説は一切ないまま書き続ける。

みなさんご自身でググるなり、直接僕に質問していただくなりして調べていただきたいのであるm(_ _)m

また内容に関しての質問は受け付ける余地はありますが、愚痴やツッコミに関しては一切受け付けない方向で進んでいくことを申し上げておく。

最近このようなご質問をいただいたのである。

私のパートナーシップはやっぱりまた上手くいきっこない…
今までも選ばれなかったし…
これ以上傷つきたくない。

今まで何度も頑張ってきたけど、愛することも疲れるからしたくない。

ふと気づくと、そう思ってしまいます。
そう思うことでリスク回避している感じがします。
(本当のリスク回避になるとは思っていませんが‥)

過去の自分=失敗、ダメだった
そのイメージをすり変えることは難しいですが、コツコツ続けていきます。

私のパターンを変えれる機会でもありますし^_^

ただ、ふと私みたいに過去の痛みを抱えている自立女性って多いんじゃないかなと思いました。

もし、ブログでネタ不足であれば使って下さい。
同じ状況の女性の気持ちが少しでも楽になったら嬉しいです。

非常にありがたいお申し出である。ブログのネタ不足を解消してくださろうとするなんてなんと素晴らしい方なのだろうか、と感謝の気持ちでいっぱいである。

最近はまたネタのご協力をいただくようになり、かつ、未だお答えできていないネタも存在し、できる限り早めに書く努力をしているが、何分暇そうに見えて多忙(に見せていて実は暇という説もあるが)なので、必死こいて書いていきたいと思っているところである。

ちなみにネタを送っていただくのはとてもありがたく涙が出るほど嬉しいのだが、あまりにたくさんの個人情報が記載されているネタには触れられない、という点は、ネタギバーの皆さまにどうかご理解いただきたい点である。

「これは読む人が読めば誰か分かる」という話を送っていただくことも少なくないのである。ご自分の話はいいとしても、相手のことを事細かく書いていただくと流石に扱えないのである。その点はネタ募集のレギュレーションをもう一度ご理解いただきたいと切に願っているのである。

いきなり何の話や、という話を書いているが、アサノのコラムではそのあたり無双状態のまま書い続けていきたいと思う。

たまには思ったことを思いつくまま自由に書きたいのである(^^;

愛することに疲れたという事実をどう解釈するか

さて、ご質問にはこう書いてくださっている。

>これ以上傷つきたくない。
>今まで何度も頑張ってきたけど、愛することも疲れるからしたくない。

さて、私達はなぜそう思うのだろうか。

パートナーのことを愛する努力をして、しかし切ないことだけれどうまくいかなかったという経験があったとしよう。

すると、これ以上傷つきたくない、もう愛することに疲れた、と思うことだってきっとあるだろう。

しかし、なぜそう思うのか、に関しては、実のところ、人それぞれで解釈がかなり違うように思うのである。

「そんなにつらい経験をしたのだから仕方ない」と思う人もいるだろう。

「もう失敗したくないから」と思う人もいるだろう。

「私の愛を受け取ってくれないヤツが悪い」と怒りを感じる人もいるだろう。

「誰かを愛することができなくなった自分」を嘆く人もいるだろう。

「それってサボるための言い訳じゃないの」と思う人もいるかもしれない。

「誰だって傷つくし、その程度のことで(私だって傷ついたことがあるけれど、それでも前を向いてきたよ)」と考えてしまう人もいて不思議ではない。

それは人それぞれの価値感に従って答えを出すと思うからこそ、そこに僕が突っ込む余地はあまりないのである。そう思うのであれば、そう思われていいと思うのである。

 

ただ、この「もう傷ついた」「愛することに疲れた」と感じる歴然とした事実に対して僕がどう考えているのかについては、あまりブログでは述べたことがないに気づいたのである。

そこで、今日はその僕なりの答えをまとめておきたいのである。

全ては「幸せに生きるため」なのである

>これ以上傷つきたくない。
>今まで何度も頑張ってきたけど、愛することも疲れるからしたくない。

もし自分自身がそう感じるなら、これもまた「自分が幸せに生きるため」なのだろうと僕は考えている。

このような思いを防衛的なスタンスと分析をすることはあるが、しかしその本当の目的がこれ以上耐え難い感情を感じないため、とだけ考えているわけではない。

そもそも僕たちはどうしたって「今の自分が耐え難い感情や環境に置かれ続けること」を避けたいと感じるものだろう。

そう思うことで、次の恋愛に進めなかったとしても、それ以上にこれ以上傷ついたり、耐え難い感情を感じることを避けたいと思うことはありえる。

そして、もし自分がそう感じるなら「自分の身にそれだけのことが起きたのだ」と解釈したほうがいい、と考えているのである。

つまり、もう傷つきたくない、という思いは、自分なりに「もう傷つけないほど傷ついた」ということを示しており、愛することも疲れた、という思いは、自分なりに「それぐらい愛した」ということを示しているのだと思うのである。

僕はこれを「言い訳」「逃げ」とは解釈しない。

なぜなら、人それぞれ物事に対して感じる感情の強弱は違うだろうし、人それぞれ感度が違うと考えているからである。

そう考えると、「愛することに疲れた」と感じることも、その人の個性や個人的体験による結果であって、いいも悪いもないことではないか、という思いに至るのである。

むしろ、その人にとって「愛することに疲れた」と感じる必然性があった、と僕は考えるのである。

つまり「もう愛したくないと思う」だとか「愛することを諦めること」もまた、長い目で見れば、自分なりに考えた「自分が幸せになるために選択の一つ」ではないか、ぐらい思うのである。

ただ、ここに問題があるとしたら「愛することに疲れた」と感じていると、つい自分を否定的に見てしまいがちなって、今が苦しいと感じることになることなのだろう。

結局自分で自分を否定してしまうから、自信を失い、愛する恐れが強まるのではないだろうか。

ただ、ここでこうも考えられないだろうか。

そもそも「愛することに疲れた」と思いながら誰かを愛するなんて、自分が自分に嘘をついているようなものだ、と。

いわば本来の自分らしくないと思わないだろうか。

もし、そんな思いを抱えながら、自分の気持ちを偽るかのように「あなたのことを愛しているわ」と言ったとして、幸せだと思えるだろうか。

きっと幸せではないと思うだろう、と僕は考えるのである。

 

だから新しいパートナーと別れるしかなかった、という声を僕はたくさん聞いている。

だから今のパートナーと別れたいけど申し訳なくて、と苦しまれている人の声も同じだ。

そう考えると「私は愛することに疲れている」と思うなら、それもまた素直で、今の自分に必要な率直な気持ちであり、一旦その気持ちは受け容れてみるほうがいいと思う。

つまり、本当の意味で「幸せに生きる」ことを考えたときに、「今、愛することに疲れているから、今は誰も愛さない」と感じることはあり得るだろう、と思うのである。

これを僕は「しゃーないこと」であって、問題ではないと申し上げているのである。

僕たちは自分の今の考え、行動になにかしらの偏りがあり、幸せを考えているのに、しかし直接的に幸せにならない行動をすることがある。

「傷つきたくない」「愛することに疲れた」と思うこともその一つであろう。

だから僕は「傷つきたくない」「愛することに疲れた」と思っている自分自身が、今の自分自身にどんなメッセージを出しているのかを聞いていただきたいと思っている。

よって、僕は、今回ご質問いただいた方にも『愛することに疲れたと感じるほど、自分の気持ちを受けてとってもらえなかった過去の自分を大事にしてほしい』とお伝えしたのである。

今、自分が愛することに疲れていることも、幸せになるためのプロセスの一つだから、その自分の内なる声を大切にしてもらいたいとお伝えしたのである。

 

が、多くの方は「昔の自分をただ励まし、傷んだままで乗り越えようとする」ようである。

僕がお伝えしたいのはそうではない。

もし、愛することを思いきりサボってきたという場合なら、しんどいけど頑張ろう、と僕はお伝えするだろう。

しかし、今回のご質問はそうではない。

愛することに疲れた、とおっしゃっている。

もちろんその愛し方になにかあったのかもしれないという視点も必要だけれども、しかしその方は自分なりにきっと愛したのだろう。

だから、傷ついたのだろうし、疲れを感じるし、愛したくないとさえ思うのだろう。

それが自分にとってどれだけ切ない気持ちを与えるか、と分かっていながら、そうせざるを得ない事情が僕には伝わってくるようなのだ。

だとしたら、その自分をいたわり、大切にしながら、いいも悪いもなくその気持ちを見つめて欲しい、とお伝えしたいのである。

そもそも、うまく愛せなかったと思っている自分をムリに励まそうとしてもうまくいかないことは多々あるのである。

ただただ受け止めて、その内なる声を聞いてほしいのである。

そこに悲しみがあるならその悲しみを。

そこに痛みがあるならその痛みを。

そこに本当に成し遂げたい思いがあるならその思いを。

そこに自分を責める気持ちがあるなら、その気持ちに耳を傾けてもらいたい。

一人で向き合うことが難しいならば、僕たちカウンセラーがお供させていただくこともできる。

そしてその過去の自分が「もう愛することは嫌だ」というメッセージを伝えているなら、そのメッセージも無視してほしくはないのである。

そもそも愛したい気持ちがなければ「愛することが嫌だ」と思うこともないと理解していただきたいと思っている。

それぐらいあなたは偉大なのである。

 

だからこそ、内なる自分の声を無視して「また頑張ろう?」と自分に声をかけても、「ウソつけボケ!」「お前も敵か!」と内なる自分に言い返されてしまう可能性が高い。

また、このような深層心理の投影から、自分の味方や気持ちに寄り添ってくれる他人に対して悪態をつきたくなる人もいれば、自分のことを誰にも見せたくない、と考えるようになる人もいるはずだ。

この状態に陥ると恋愛が怖くなる。自分の怒りが投影の作用で相手に映り、相手に怒られる、拒絶される、と感じて、相手に関わることが難しくなるのである。

このようなときは、どうしたって、いいか悪いかではなく、今の自分の事情を理解し寄り添うことが必要なのだろうと僕は考えるのである。

本来、僕たちはタダで人を愛したいと思うほど純粋な存在だ。相手の笑顔がそこにあってくれればいい、と願えるような存在だった。

しかし、恋愛などで傷つく経験、失敗などの経験から「今の自分では不十分ではないか」という感覚を抱くようになる。

その不十分な自分という感覚をベースに、より素晴らしい自分になろうとする。

僕はこの発想がそもそも間違いであって、ここから問題が生じている、と考えている。

いわば根深い補償行為の種である。

いくら傷つき失敗したとしても、自分は自分として素晴らしいのである。

ただ、この最も理解すべきことを、なぜかなかなか受け容れられずにいることが問題なのだ。

いつも自分が素晴らしいということを、ありとあらゆる理由をつけて疑い続け、傷つかないようにと考え、生きているのである(実際は傷ついちゃうんだけどね)。

どこか人に愛されないなんてことにならないように、いつも頑張っていなければならない、と考えていると、余計に問題をこじらせる。

言い換えるなら、今まで自分なりに頑張ってきたにも関わらず、「愛することに疲れた」と感じている自分を否定的に見るとしたら、もう自分の逃げ場がなくなってしまうということだ。

この状態で最愛の人を見つけ、関わり続けること自体、非常に困難なことだろう。

だから僕は「愛することに疲れた」と言っている自分の声を聞いてほしいとお伝えするのである。

まずここは外せない部分だと考えている。

誰がなんと言おうと、あなたはあなたなりに愛したのだ。

 

その上で「愛することに疲れた」と感じているとしたら、そこにはなにか理由があるはずではないか、と考えてみてほしい。

重要な視点は、「愛する」という思いや行為の中に、なにかしらの補償行為や自己不信が紛れ込んでいなかっただろうか、という部分にある。

ここは、自分の気持ちがある程度楽になってからゆっくり考えてみてほしい。

そして、その補償行為を手放して、思うがままに自分の愛や好きを表現できるようになることが「自分が幸せになるための大切なプロセスだ」と僕は考えている。

 

だから、そもそも幸せになることは「愛することに疲れない自分」になることが本質的な目的なのではないとも考えている。

人はいつも100%で愛せるわけではない。20%になることも、80%になることも、190%になることもある。

いつも同じように愛したい気持ちは痛いほど分かるが、いつも思うように愛せるわけではない。

そもそも恋愛は仕事のように目に見える報酬があるわけではない。

そこにあるものはパートナーとの関わりや信頼、絆である。

それらは目に見えないものだからこそ、ちゃんと見ていないと見失ってしまうこともある。

僕たちはそんなに強くないし、完璧ではないのだ。

だから、自分が大切ななにかを見失った時、パートナーや家族、親しい仲間がそれにまた気づかせてくれることも多い。

これは「愛を受け取る」という行為によってなされるわけだから、ぶっちゃけ愛することに疲れている状態では見えないものでもあるのだ。

よく「愛することに疲れた」と僕に伝えてくれる人は「もう一度私が(相手のすべてを)愛せるようにならないと」といったニュアンスの言葉を伝えてくれるが、それはあまりに一方的な発想になっていないだろうか、と思うことがある。

幸せは「私が」だけではなく、「お互いに支え合うこと」が必要なのである。

だから、もし幸せなパートナーシップを持ちたいならば、自分が愛せることだけではなく、相手の愛を受け取る気になれているのかも重要なことなのだ。

このあたりに「なにか補償行為があるのだろう」と気づいていただきたい、と思うことも多々ある。

言ってしまえば、自分一人で恋愛を成立させようとした結果、愛することに疲れた自分をちっぽけに扱っているかに気づいていただきたいのである。

そのような声はもちろん僕も聞くが、あなたにも聞いてほしいのである。

一緒になって向き合っていってもらいたいのである。

 

愛する人の前で、何を怖れていたのか。

愛する人のために、どんな犠牲を払うつもりだったのか。

愛する人のために、何が足りないと感じていたのか。

愛する人に、あなたはどうして助けてほしい、と言えなかったのか。

そもそもなぜそのような自分の愛が伝わらない状況を導いてしまったのか。

 

そこに気づいて受け容れ、「しゃーないなぁ」「そんな自分が可愛いなぁ」と笑い飛ばせることが癒やしの本質なのだろうと僕は思うのである。

そして僕はカウンセラーとして、あなたの今の気持ちに寄り添うときもあれば、あなたがきっと行き着くであろうゴール側に立って、しれっとあなたを待ち続けていることもある。

実は状況によってコロコロ変えているのであるが、これは明らかなネタバレなので忘れていただきたい(^^;

だから、僕はあなたが「愛することに疲れた」と伝えてくれたとしても、「うん、それで間違いじゃないんですよ」という気持ちで待っているし、そう伝え続けることも多いのである。

 

しかし、今のあなたはどうだろうか。

もしあなたが「愛することに疲れた」と感じていた時、自分に「なにか事情があったんじゃねーの?」と語りかけられないこともあるのではないだろうか。

つい自分を責めていないだろうか。

愛せなかったことを相手や他人のせいばかりにしていないだろうか。

愛せなかったことを自分のせいだけにしていないだろうか。

そして「私はこうあるべき」という答えだけ探してしまわないだろうか。

 

これらはどれも「愛することに疲れた自分」を認めない発想だと僕は思う。

ただ、今はそれでも全く構わないのである。

それが今の素直な気持ちで、これもまた一つの幸せへのプロセスなのである。

そこでは「なぜそう思うのかな」と、ぜひ自分を見つめていただきたいのである。

そのようなプロセスの先で待っているのが「本当の愛ある私」なのである。

カウンセリング・セミナーを利用する
カウンセリングを受ける

なりたい自分になるカウンセリングが人気!
心理カウンセラー浅野寿和のカウンセリングのご利用方法はこちら。

カウンセリングのご案内ご予約可能時間のご案内

 

あなたの質問にお答えします

ブログ読者の皆さんからのご質問に浅野がブログ上お答えする「ネタ募集コーナー」は現在も継続中。よろしければあなたの訊いてみたことを↓のページから送ってくださいね。

ネタ募集企画のお知らせカウンセリングサービス・心理カウンセラー浅野寿和です。 いつもご覧いただきましてありがとうございます。 さて唐突ですが、この度このブ...