アサノのコラム

決してジョーカーを渡さないババ抜きと犠牲の話

ババ抜きであえてジョーカーを抱えて自ら負けを選ぶ人がいるとしたら

多くの方が一度は楽しんだことがあるのではないでしょうか。

トランプを用いたゲーム「ババ抜き」。

誰が最後までジョーカーを抱えるかで勝敗が決まる、アレです。

多くの人がジョーカーを引く度に、表情に出さないとしても心のなかで

「あー・・・」

って思うものではないでしょうか。

そしてできれば次の人に「ジョーカーを引いてもらおう」と思うものではないでしょうか。

もちろんゲームで勝つためにです。

 

ただ、もしこんな人がいるとしたらどう思います?

「意図的にジョーカーを抱え、そのジョーカーを誰にも分からないようように隠し、自ら負けを選ぶ人。」

ちょっと不思議だと思いませんか?

持っていたら負けが確定するジョーカーを引かれないように隠し、自分が負けるように仕向ける。

そんな行動を起こす人がいるとしたら、それはなぜ?って思わないでしょうか。

実はカウンセリングをしていると

まるで「自らジョーカーを隠し、相手にジョーカーを引かせないような振る舞い」を取る人がいるんです。

要は自分から負けを選び、相手を勝たせようとする人がいる、ということです。

その結果、自分の勝ち(幸せ)が後回しになってしまう、ということなんですが。

今日はババ抜きとジョーカーを比喩として、ジョーカーを引かせないように振る舞う人の心理についてコラムにしてみたいと思います。

ババ抜きから見る犠牲のパターン

ババ抜きを楽しむ中で、あえてジョーカーを抱えるとしたら、このゲームでは負けますよね。

これ、心の視点で見ると「犠牲」なんですよね。

自分が犠牲となって負けることで、誰かが勝つことを望んでいる、という風に見ることができるんです。

もちろんババ抜きの相手が小さな子供さんなどの場合で、普通にやるとこちらが圧倒的に勝ってしまうので、相手のためにあえて負けを演出するといった話なら、僕もなるほどね、と思うのです。

が、この手の犠牲を行いがち人は、よくこのようなお気持ちを伝えてくださるんです。

「私が勝ったら誰かが負けて嫌な思いをする。それだったら私が負けたほうが気が楽なんです。」

「私のジョーカーを引いた人が怒り始めたら怖いじゃないですか」

これ以外にも様々なお気持ちを伺うことがありますが、代表的な例としてはこの2つかなと僕は感じています。

前者は「人の嫌な顔を見たくない。自分が勝って誰かが負ける姿を見るとちょっと苦しい」といった意味合いでしょう。

いわば誰かが傷ついている姿は見たくない、とおっしゃる平和主義者っぽい発想です。

後者は「自分が勝とうとすると相手にキレられる」と言っているわけです。

要は自分がいい思いをすると誰かにキレられる(嫉妬や攻撃を受ける)ので、自分は勝ちを選びません、なんて風に感じているのでしょう。

まぁババ抜きというゲームの性質上、誰かがジョーカーを引くわけで、それこそ仕方ないことなんです。

が、確かにプレイヤーの中に大人げない人がいて、自分の不運を人のせいにする人がいたらイヤですよね。

逆ギレされてもねぇ、って感じですし。

が、そういった人の怒り、攻撃を恐れすぎてしまって相手にジョーカーを引かせないような振る舞いをする人も確かにいるんですよね。

これは怒りや恐れからの回避と言えるでしょう。

ババ抜きを恋愛や成功と置き換えてみると

さて、ここで「ババ抜き」という言葉を「恋愛」「幸せ」「成功」という言葉に置き換えて考えてみるとどうなるでしょうか。

「私が幸せになったら(成功したら)誰かが負けて嫌な思いをする。それだったら私が不幸になっていたほうが気が楽なんです。」

「私が幸せになって、私の負担を渡したとき、相手が怒り始めたら怖いじゃないですか」

まぁまぁいろんな考え方があると思いますが、このように言い換えられるのではないかな、と僕は思うのです。

私が幸せになると誰かが不幸になると思うパターン

前者は「私が幸せになると誰かが不幸になる」という発想なわけです。

いわば「この世にある幸せの総量は決まっていて、誰かが幸せになると誰かが不幸になる」という考え方の上に成り立っていそうです。

もし本当にそうならば、僕たちが幸せになること自体、かなりエグい話になりそうですね。

だから私はジョーカーを抱えたら誰にも渡さない、と思うのでしょう。

つまりこれは「誰かのために良いことをしている」という発想のようです。

ただ冷静に考えてみると

「自分が幸せになること」と「誰かがそうではなくなること」の因果関係はその都度検証されるべきことではないでしょうか。

そもそも自分が幸せになることで、誰かが不幸になるなら、そこにはそれ以前から因果関係があるはず。

例えば、同僚の○ちゃんが私の彼を意図的に奪って結婚した、という話なら、まだ因果関係はありそう。

しかし、同僚の○ちゃんが、ステキな彼を見つけて幸せな結婚したからといって、自分が結婚できないわけじゃないですよね。

その因果関係を証明することって相当困難なことではないでしょうか。

ただ実際に、人の幸せを見て「自分には無理かも」と深く思ってしまう人もいるようです。もちろんこれは切ない話なんですよ、心情的には。

これはどこかで「自分が幸せになることがいけないことだ(誰かの不幸を作っている)」と感じている人ほど、このように感じてしまうようです。

いわば「罪悪感の影響」そのものなんですよね。

自分が幸せになると誰かが不幸になるほどに、自分が幸せになることが罪なのだ、と感じているわけですから。

ただ、罪悪感的発想は多く真実ではないものです。

つまり、自分も相手(誰か)も、お互いに幸せになることこそ本当に目指すべき目的ではないのかな、と僕は思うのですけどね。

私が幸せになると誰かにキレられるパターン

一方、後者は「私が幸せになるときに誰かに負担をかけたとしたら、その人がキレるんじゃないですか」という発想ですわね。

こういった思いを抱える人ほど、実際に自分が良い思いをしたことに対して攻撃を向けられたり、ひどい嫉妬ややっかみをぶつけられた経験があるようですよ。

「あんたはいいわよね」とかね。

「あーあなただけ幸せになればいいじゃん。私のことはどうでもいいんでしょ」とかね。

「自分だけ幸せになればいいと思ってるんじゃない?自己中だよね」とかね。

そんなつもりはないのに、周囲からそんな言葉をぶつけられて凹んでね。

その結果「私が幸せになると誰かの気持ちを乱すんだ」と思い始める人もいるわけですよ。

まぁ確かに自分が幸せになったとき、意図的に人をマウントしたり、自分だけ幸せを独占しようとしていたら、そう言われることもあるかもなー思うのです。

が、まったく悪意がないにもかかわらず、周囲からのこき下ろされたりすると、まぁ怖いしその状態を避けたくなりますよね。

が、うーん。

そもそも人の不幸を妬んだり、よく相手の事情を知りもしないのに文句をいう時点で、心の面では領域侵犯みたいな状態なんですよね。

そう言いたくなる気持ちも個人的には理解できるんですけどね。

相手の幸せを願う気持ちになれなかったとしても、相手の有り様を否定するってのは、明らかな怖れによるコントロール。

ただ、この手の怒りや攻撃を頻繁に、または、親密な人からまともに食らっちゃうと、自分がやりたいことを選んだり、幸せになろうとするだけで人の目が脅威になってしまうこともあるようですよ。

自分から負けを選ばないようになるために

こう、深い意味、意図や、相手のためにという思いがあって負けを選ぶなら、まだいいんですよ。

問題は「負けしか選べないと感じる状態」なんですよね。

本当は幸せになりたいのに、それを選べない。

本当は成功したいのに、攻撃や批判が怖い。

もしそう感じるなら、これは心の反応なので、自分の反応を見つめ直すアプローチがいい感じなんじゃないかなと個人的には思いますけどね。

ただ、あなたが平和主義でも、怒り・恐れを回避したいと思っていても、自ら幸せや成功(勝ち)を手放す必要はないんですよ。

むしろ、犠牲的な意味合いで幸せなどを手放すと、あなたの周囲の人々はあなたの不幸を演出するキャストになってしまいかねないんです。

ただ、あなたと仲良くしたい。

できれば、あなたの幸せを応援したい。

そう思っている人も自分の罪悪感や恐れに付き合わせてしまうことになりかねないんですよね。

ま、そこまで人のことを考える必要があるのかどうかは別にして。

どうあれ、もしあなたがババ抜きをするなら、正々堂々ゲームのルールに則って楽しんで、勝ち負けを楽しんだほうが良さそうです。

何より切ないのは、あなたが負けようとしていることに誰も気づいていないこと。

そんな現実を知ると更に切ないですからね。

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