浅野先生へ
先日は『言いたいことが言えない、いや「言う資格がない」と感じてないですか?』というタイトルでとりあげてくださり、ありがとうございます。
さえです。
今回はお礼とその後についてお知らせしたく、筆を取りました。日があまり経っていませんがもしブログのネタになるようでしたらお使いください。
まず「相手の期待や要求に応えられない自分に価値観を感じないから」という言葉に核心を突かれ、しばらくその先が読めませんでした(笑)。
お言葉を受けてから、色々と考えていました。
私は彼との関係だけではなく、幼少期から親の期待に応えようとし続けた背景もあり、どこかで自分自身の価値を感じないようにしていたんだと思います。
ブログにも書いてくださったように「ちゃんとしてなきゃ愛されない」と常に怯えていたことも思い出しました。
だからこそたくさん自分の価値を増やして「人に認めてもらう」ことが必要で、自分では認められないのに、彼には私の勝ちを認めることを求めていたように感じています。
彼の「調べといて」「末っ子気質だから」という言葉も悪気があるものではなく「こういう僕だよー」という宣言なのはわかっていたものの、私には何もないと感じやすい身としては「何も出来ない……」に繋がりやすかったんだなあ…と俯瞰して考えられるようになってきました。
また、以前お金のことで同じようなことがあって、彼から「次はおごってね」というやり取りに疲れたことがありましたが、これは彼なりに私も軽口で「じゃあその次の次はおごってね」と言える雰囲気を作りたかったみたいで。要はわかりづらい気遣いですね(苦笑)
なので、今回の「調べといてよ」も、もしかすると彼なりの私が調べるハードルを下げるとか、完璧を求めてないよ、というわかりにくい気遣いかも?と気づけました。
まだこの気づきが本当かはわからないので、今できる力であれこれ調べてみて、後は「どういうことが他に知りたいの?」と聞いてみます。
このブログが出た後に彼と会いました。普段は自分が遠慮することに力を注いでばかりでしたが、今回は彼のことをよく見るようにしました。そしたら彼の目や仕草が優しく、声も柔らかくて本当にびっくりしました。外を歩く時は手すら繋ぐのを恥ずかしがるし、口数が少なく、笑わないクールなタイプなので。
そんなギャップに驚いて「いつもより甘いよ……」と言ってしまったくらいです。彼は「そう?いつもと変わらないよ」と言っていましたが(笑)。
私、そのくらい愛されていたんだなあ、大切にされていたんだ……価値がないなんて思えなくなっちゃったよ。
と心から嬉しさや愛しさ、幸せが込み上げてきました。
彼が今まで私を気遣ってくれた行動や言動を改めて振り返る機会に恵まれたお陰で、彼をもっと信じてみようと思えるようになりました。
過去の記事もゆっくり読み進めています。
浅野先生、背中を蹴飛ばしてくれてありがとうございます。お陰で自分に向き合う勇気が出ました。
ネタ募集ネーム:さえさん
さえさん、早速のご感想ありがとうございます。
直近に書かせていただいた記事だったと思うのですけれど、既に状況が進展しているようで僕が驚いております。
また、僕としては背中蹴飛ばしたつもりもないんですけど、ドロップキックっぽくなってましたかね?
そして「いつもより甘いよ」ですか!
うーん、あま〜いっ!!!
どうぞお幸せに!
さて、さえさんが書いてくださったことの中に、とても重要なことが書かれていましたので僕もさっと反応してみたくなりました。
特に反応したくなったのは以下の部分なんですよ。
自分が見ているものが変われば反応も変わる
彼の「調べといて」「末っ子気質だから」という言葉も悪気があるものではなく「こういう僕だよー」という宣言なのはわかっていたものの、私には何もないと感じやすい身としては「何も出来ない……」に繋がりやすかったんだなあ…と俯瞰して考えられるようになってきました。
また、以前お金のことで同じようなことがあって、彼から「次はおごってね」というやり取りに疲れたことがありましたが、これは彼なりに私も軽口で「じゃあその次の次はおごってね」と言える雰囲気を作りたかったみたいで。要はわかりづらい気遣いですね(苦笑)
なので、今回の「調べといてよ」も、もしかすると彼なりの私が調べるハードルを下げるとか、完璧を求めてないよ、というわかりにくい気遣いかも?と気づけました。
まだこの気づきが本当かはわからないので、今できる力であれこれ調べてみて、後は「どういうことが他に知りたいの?」と聞いてみます。
まぁ、他人の言葉をどう捉えるかって人それぞれで違うと思うんですよね。
でも、自分の捉え方、感じ方一つで、見える世界が変わることってありますよね。(無理やり見る世界を変えるってことじゃないんですが)
例えば、彼や彼女から「おごって〜」と言われるとしてね。
人によっては(口には出さないけど)「てめぇ、甘えてんじゃねーよ」と思う人もいるでしょうし、「ええで〜ええで〜、そんなに僕を必要としてくれて嬉しい!どんだけでも出したげる!」と思う人もいるでしょうね。
考えすぎちゃう人によっては「え?それって私のことを利用してる?」「私に甘えたいだけ?」と感じるかもしれないですしね。
で、ですよ。
この「人それぞれの感じ方」ってものは、基本「自己概念に沿う」なんて考え方があるんですよ。
詳しい話は↓の記事を読んでいただけるといいのかなと思うんですけどね。
要は、自分自身が自分のことを「どんな人だと思っているか」次第で、自分が選択する情報が変わる、みたいな感じですよ。
例えば、自分自身が「私って気遣いが下手なんだよな〜」と思っている人がいるとしたら。
私がうまく気遣いできなかったことばかり意識して、上手に人と関われた事実があったとしても、なかなか意識されなくなってしまうことがある、ということです。
もう少し突っ込んで書くと、自分がちゃんと他者を気遣えたという事実は、自分の自己概念に沿わないので、実際にそういった経験をしたとしても、自分の中で捻じ曲げて解釈しちゃうんですよね。
「いやいや、私はそんな上手に気遣えてないよ。相手が優しかったしいい人だっただけ」
みたいにね。
確かに相手が優しかったのかもしれないけど、自分が気遣えていたのであれば、その事実は受け止めていいことなんですけどね。
僕たちはしらずしらずのうちに、事実を捻じ曲げて受け止めてしまうこともあるようですよ。
もちろん逆の場合もしかり。
例えば、私はめっちゃ仕事ができると(漠然と)思っている人が、仕事でミスをしたとしたら、「私がミスするはずがない」「そんなことなんてありえない」なんて風に感じるんでしょう。
そこで素直に事実を受け入れられずにいると、周りから「この人って自分に都合の悪いことと向き合わない」なんて思われるかもしれない。
まぁこれは極端な例ですけど、自分が思う自分(それが正確な自分を示しているとは限らないのですが)に合わない事実は、都合がいいかどうかは別にして捻じ曲げて認識されることがあるってことです。
ちゃんとしていないと愛されないってなぜ思うのだろう?
まず「相手の期待や要求に応えられない自分に価値を感じないから」という言葉に核心を突かれ、しばらくその先が読めませんでした(笑)。
お言葉を受けてから、色々と考えていました。
私は彼との関係だけではなく、幼少期から親の期待に応えようとし続けた背景もあり、どこかで自分自身の価値を感じないようにしていたんだと思います。
ブログにも書いてくださったように「ちゃんとしてなきゃ愛されない」と常に怯えていたことも思い出しました。
「相手の期待や要求に応えられない自分に価値を感じない」ということは
他の誰かが、ではなく、自分自身が
「私って人間は人の期待や要求に応えてきたから価値がある」
つまり、「他人の期待に応えられる私じゃなきゃ意味がない」みたいに感じているってことですよね。
確かに他人の期待に応えることも重要なことで、そのチャレンジは素晴らしいんですよ。
また、他人の期待に応えるって難しいことだけど、その意識を持つことが向上心・向学心につながる場合もあると思うんです。
ただ、「他人の期待に応えられないから自分に存在価値がない」と思うなら、そりゃ明らかに行き過ぎだろう、と僕は思います。
むしろ「大切な人の期待に応えられないことが悲しい」と思うことが多いのではないでしょうか。(全ての人がそう感じるとも思いませんが)
例えば、親、家族、恋人、仲間、友人、同僚、会社、上司、妻、夫・・・
自分が大切だと思う人が私に何かを望んでくれている。
そう感じたときに、「その期待に応えたい」と思うことが自分なりの愛や好意ならば、それをうまく表現できない自分が許せなくなる、なんてこともあり得る話なんですよね。
だから、いつしか人から期待されることをプレッシャーに感じすぎる人も出てくれば、失敗したくないから正解ばかり求める人も出てくると思うんですよね。
モノの見方を変えることは隠していた感情に触れることに通じる
そのような気持ちの根っこを見つめていくと
「私って、人の期待に応えないと思うと、すごく悲しい思いを感じる。だから、絶対に失敗できない。」
なんて思いが出てくることもあるんですよね。
(その悲しみから遠ざかりたい人ほど、期待そのものを鬱陶しく思い誰にも何にも期待しない人が出てきたり、期待する人を「あぁうぜぇ」と感じる人も出てきちゃうのでしょうけど。)
そして、そこにはとても純粋、ピュアな気持ちがあったりすることも多いですよね。
「ただただ、大切な人を喜ばせたい」というね。
ただ、こういった「相手を喜ばせたい」的な気持ちって、すごく純粋でピュアだからこそ、打ち砕かれると激痛が走っても不思議ではないと僕は思うのですよね。
だから、言い方はあれですけど「癇癪」っぽくなりやすいといいますか、ね。
「そんなお花畑的な発想持ち合わせていねーよ」と思う方であっても、自分が大切な人のために機能していない事実って結構きついものだと思うんですよね。
特に恋愛など、普段は隠しているピュアな気持ちをビシビシ刺激される状況になればなるほど(純粋な願いを叶えたいと思う状況であればあるほど)
相手の期待に応えられないことで感じる悲しみと、それを感じたくないからこそ起こる自己否定って強くなっちゃうんですよね。
*
この話を「自分が思う自分(いわば自己概念)」から生じていることと考えるならば、次のような感じになりますかね。
何らかの理由で「私は大切な人の期待に応えられない」という自己概念が強く存在するので、「大切な人の期待に応えられない」という事実ばかり意識することになる。
が、それって感情レベルでは「すごく純粋な気持ちと、それに伴う悲しみを感じたくないからだよね」と僕は感じることが多いですかねー。
だから、無理のないレベルから、今まで抱え込んだその悲しみを自分で引き受けて消化することができるなら。(自分の感情と向き合うってことですけど)
また、自分が経験してきたことを、ある程度真っ直ぐに受け止めることができるなら。(いいこともそうではないことも含めてね)
ちょっとずつ今の自分(自分が思う自分)では見えていなかった事実を受け止められるようになっていくんですよね。
さえさんの話であれば、彼の真意ってかなー、彼の行動や伝えたいことの意味が、また別の解釈として受け止められるようになる、といいますかね。
もちろん相手が何を考えているかは相手しかわからないんですよ。
ただ、自分自身が「今起きている現実をどう捉えるか」という部分に変化が出てくるといいますか。
つまり、大切な人の期待に応えられない悲しみを避け続けたり、抱え続けていると
「そんな自分じゃダメなんだ」
なんて思い続けることにもなりかねず、それゆえ考えすぎてしまうことにもなるかもしれないけれど。
自分の悲しみを受け止めることを通じて、「ってことは、私って人を喜ばせたい人なんじゃね?」と思えるようになると、見える景色が変わるといいますかね。
すると「あれ、相手って私にがっかりしてるんじゃないのかも?」とか思えたりするものなんですよね。
それが、いい形のコミュニケーションに繋がっていくなら、まぁ関係性は悪い方向には向きにくくなるのかもしれませんよね。
と、今日の話はかなり難しい内容なんですけども。
しかし「感情を扱うこと」の意味って大きいよな、と僕は考えているんですよ。
もちろん頑張りまくった結果、今がめちゃめちゃしんどいとお感じの人に、無理やりにでも悲しみを感じろ、とお伝えすることはありませんけどね。ゆっくり休んでいただくことも重要なことですからね。
ただ、あれこれ考えて凹んでを繰り返してもうまくいかないときほど、自分の気持ちってものや、自分が思う自分というものに興味を持ってみることが、いわゆる「いい結果」を導くポイントになることも多いんですよ、というお話ですね。
ということで、今日は以上です。
また、さえさんにはたくさんネタを出していただいて感謝しております。
ありがとうございましたm(_ _)m
本当の幸せを見つめる・見つけるカウンセリングが人気!
心理カウンセラー浅野寿和のカウンセリングのご利用方法はこちら。