ほぼ30代からの心理学

「人に頼む」が苦手で苦痛だ!と感じる人にありがちなパターンとその処方箋

実は人への「お願い」が苦手なんだけど、そう思わせないように振る舞う人たち

内心「本当は人にお願いすることが苦手なんだ」とお感じの方、どれぐらいいらっしゃるでしょうか。

実際に同じようなご相談を伺うこともありますよ。

実は僕自身も非常にお願いや「人に頼むこと」ってあまり得意ではなくて、ついつい「自分でやったほうが早い」と考えてしまう傾向が強いのです。

だから、そのモヤっとするような、嫌だな〜と思う気持ち、個人的に分かる気がするんですよ。

 

さて、「人に頼む」が苦手で苦痛だと感じる人って、こう考えてしまうことってないでしょうか?

「相手に『こうしてほしい』と思うことがあっても、それがとにかく言いづらい」

「もしお願いして拒絶されたらどうしようなんていつも考える」

どこかで「相手に拒絶される不安や怖れ」を感じることってないでしょうか。

実際、この手の怖れは「今、目の前の人に拒絶された」という事実によって生じていることはあまりないのかもしれません。

「きっと私は拒絶されるだろう」といった自分の思い込みから生じていることが多くないでしょうか。

だから「一人で頑張ろう・頑張るしかない」という選択肢しか出てこなくなり、余裕がなくなると追い込まれてとても大変な思いをするのかもしれません。

 

でもまぁ、初対面の人に何かお願いができる人って少ないですよね。苦手な人、お互いに知らない人にモノを頼まれるって驚きますしね(笑)

ただ、「人に頼む」が苦手で苦痛だと感じる人ほど、なぜかあまり良く知らない人、初対面の人に対しても「こうしてほしい」なんて思うことが(実際に依頼するのではなく、欲求を感じるという意味)少なくないのかもしれませんね。

例えば、初対面だけど親切にしてくれる人がいると、すぐ心を許してしまいがちだ、とか。

自分に少しでも好意を示してくれる人がいると、その人のことをよく知らないのに「すごくいい人だ」「素敵な人だ」と思いこんでしまう、とか。

まぁ相手のことをよく思うことが悪いわけではないでしょうが、相手のことをよく知らない状態で好意的に見すぎてしまうとしたら、それもまた妙なことだとは思いませんか?

その後で「えー、そんな人だとは思わなかった」とがっかりしたり、急にものすごく嫌いになってしまうこともよく伺う話でしてね。

こういった気持ちの振れ幅の大きい状態を続けていれば、人付き合いにも疲れてしまうし、恋愛でもしんどい思いをしてしまいますよね。

そんな「人に頼む」が苦手で苦痛だと感じる人にありがちなパターンと、その心理的背景について、さくっと今日はまとめたいと思います。

この話は意外とロックマンや自立的でなかなか心を許してくれない彼(彼女)、時には親との関わりにも応用できる話かなーと思っています。

よろしければどうぞ。

 

超絶恥ずかしがり屋ほど、人に頼むのは苦手

さて、そもそも人に頼むことが苦手で苦痛だと思う人ってどんな人なのでしょう。

僕の経験上、いわゆる「恥ずかしがり屋さん」がそれに当たると感じています。

ここでの「恥ずかしがり屋さん」とは、超絶シャイですぐに顔が真っ赤になっちゃう!という事実だけを指し示しているわけではないのです。

そもそも「恥ずかしさを気にしすぎる」状態ならば、(その理由は別にして)とにかく人とは関わりたくないと思うはずですから、恥ずかしがり屋さんは積極的に人と関わらない傾向があることが多いです。

だから、自分を恥のように(ときには醜いもののように)扱います。

そして親密感・親しい関係から距離をおいて過ごすようになるのです。

人によっては、親との関係であっても「親しみを感じるような経験」をあまりしていないという場合もあります。

なので、どこか人との距離感がよくわからなくなるんですよ。

相手との距離が遠いことも、近いこともよく分からないままなんです。

なので、えらく距離が遠い人に極端な親密さを感じたり、近しい人にずっと遠慮していたり、といったことが起きるのです。

だから「人に頼む」が苦手で苦痛だと感じる人ほど、「どのように人と関わったらいいか分からない」という本音を隠し持っていることが少なくないんですよね。

が、そんなことはオトナになった今、誰にも言えないし聞けないから、一人で悩むことになることが多いようなんです。

「えーそんなことも分かんないの?」と人に言われそうだからね。

ただ、僕は人との関わり方が分からなきゃ聞けばいいし、それって恥ずかしいことでも何でもないと思うのですよ。

例えば、書店に「部下との関わり方」なんて本があるとして、仕事上必要になったことで読むこと自体に抵抗がないのに、自分が人との関わり方がよくわからんことは超絶ダメなことだと考える必要はあるのかな?なんて僕は考えているわけです。

が、なぜか人との関わり方、友達との付き合い方がよく分からないことをとてつもない恥にしている人も少なくないのかしら?と思っていたりします。

 

自分から相手を拒絶していることに気づかない

また、人と関わることを苦手にしている人ほど、自分では自覚していない部分で「人に拒絶的な態度やサイン」をふだんから頻繁に出していることも少なくないようですよ。

例えば、すぐに相手に対する目線を外す、正面で人と向き合うことを避ける、「あなたがそう思うならそれでいいです」や「別にどっちでもいいです」が口癖になっていたりする方も少なくないんですよ。

これ、いいか悪いかは別にして、自ら「相手に興味はありませんよ」と伝えているようなものですし、「相手に自分のことを知らせたくありません」という態度を示しているようなものですよね。

だから、なぜか人に警戒されたり、人と打ち解けられなかったり、なんてことが起きたりするんです。

当の本人としては「そんなつもりは毛頭ない」場合も少なくないのですが、周囲はその反応を見ているので距離をおいてしまうのですねぇ。

その現実を見ている「人に頼むのが苦手な人」は、更に頼みにく〜い、関わりにく〜い、といった感覚を感じることになり、「だったら一人でいいわ、一人のほうが気楽だわ」なんて考えるようになることも多いような、そんな印象を僕は持っております。

だから、超絶恥ずかしがり屋ほど、人が嫌いになるのかもしれないな、と僕は見ています。

恨みとまではいいませんが、人に対して嫉妬心を持ちやすかったり、引き下げの心理よろしく「相手のダメなところを見て引き下げよう」としてしまう気持ちに駆られることも少なくないのかもしれません。

そこでは「自分だけ変なのかもしれない」という気持ちを解消したいと思っている部分があるのかもしれません。

 

何かを与えないと愛されないという思い込みから生じるもの

さて、「人に頼む」が苦手で苦痛だとおっしゃる方のお話を伺うと、ある一つの共通点を見出すことができる、と僕は感じています。

それが「何かを与えないと愛されない、必要とされない」という強い思い込みです。

これを罪悪感、無価値感の話として解説することもできるのですが、ここでは『利用価値があるかないか』ですべてを判断している傾向がある、とお伝えしておきましょうか。

自分には(誰かにとっての)利用価値があるか。

相手は(自分にとっての)利用価値はあるか。

目の前の物事は(自分にとって)利用価値があるか。

もし、利用価値がないなら、その何かはすべて無価値だ。

そんな判断や感覚の中で過ごしておられる方も少なくないように僕は感じています。

言い換えるなら、何か一つでも欠陥やミスなどがあるなら、それは意味がないぐらい思い込んでいる人もいます。それゆえに完璧主義に陥っている場合もあるわけです。

つまり、人にお願いができない人、恥ずかしがり屋の人は、迷惑をかけて嫌われることを超絶怖れている、といえます。

他にも、めんどくさい人だ、図々しい人だ、自分勝手な人だ、などなど思われることも怖れています。

その怖れや不安が強いので、つい完璧なものに憧れるわけです。完璧であろう、絶対にミスをしない自分になろうと考える。まぁそう思うだけで相当苦しいことなのですが、しかし恥ずかしいと思うぐらいならそのほうがマシだ、と考えるのです。

だから、人に「こうしてほしい」とお願いをする、自分の願望を伝えることにリスクを感じるわけです。

もし、それを受け容れてもらえなかったら、自分は不完全だと言われているような気がするから。そこで超絶傷つく感覚を覚えるから。

それほどまでに「親密感」「支えあい」「許しあい」「お互いさま」といった感覚ではなく、「自分という存在は相手にとって(誰かにとって)価値があるかないか」といった価値観の中で生きてきたのかもしれません。

例えば子供時代から、ちゃんとしているから愛される、自分が優秀であれば愛される、その自分にこそ価値がある、と思いこんできた人も少なくないのです。

それは今の実生活の中でも感じることなので、頑張れていない自分に価値を見いだせないから、ハードワークばかりする、相手の尽くし続ける、犠牲を続ける、といったパターンに陥る人も少なくありません。

それはどこかで「人の温かな気持ち・感情のなかで生きてくることができなかった」という体験から生じているものとも言えるんです。

だから、「人に頼む」が苦手で苦痛だと思う人ほど、自分が素晴らしく、すごい人であり続けることを自分に課すのです。それで成功できると、絶対的な成功の秘訣になり、そこから決して降りることはないのかもしれません。

逆に一度でも自分がダメになってしまえば、もう人の前から去り、隠れないといけないと思うかもしれない。たった一つの失敗が「許されるもの」とは思えず、痛烈な心のダメージになり、もう自分はダメだ、なんの価値もない、人に合わせる顔がない、と思いこんでしまうことにもなる。

逆に言えば、人の失敗が許せなくもなるし、失敗しても平然としている人を見ると「どうしてあんなに図々しい態度を取れるのだろう」と思うのでしょう。

あまりに苦しい気持ちを抱えている人の場合は、「人の失敗を見て(自分ではなくてよかった)安心したり、人の失敗を嘲笑うような気分になる」こともあるかもしれません。

人によっては、もうすでに自分は失敗していると思いこんでいて、だから人を騙したって、人を困らせたっていいだろうと思い、好きでもない人とあえて不倫関係になったり、友達のパートナーを奪ってみせたり、職場で問題を引き起こしてしまったり、チームプレーをぶっ壊しスタンドプレーばかりして見せる場合もあるかもしれません。

ただ、僕個人としては、この状態を『そこまで「親しさ」「支えあい」「許しあい」「お互いさま」といった感覚がない、どこか一度の失敗で自分が無価値であると感じるような、まるで戦場のような世界を見てきたのかもしれないな』と見つめていたりします。

これが人に頼ることが苦手で苦痛だと思う人が見ている世界なのだろう、と僕は思うのです。(もちろん全てがそうではないけどね)

だから、「僕のことを、私のことを愛してくれ」なんて、とても言えないんです。人に依存するぐらいなら自分がしんどくても自分で頑張るんです。(それでも依存的な欲求は消えないから不満ばかり貯まるけど。)

だから、些細なことでも「ちょっとこれ頼める?」と言えないんです。食卓のソースを取ってほしい、という言葉ですら言え図に我慢している人もいます。

だから、自分の好きなことにチャレンジしたり、好きな仕事ですら遠ざけて諦める人も出てきます。好きなことをして失敗したらもう立ち直れない、と考えてしまうから。だからチャレンジしない人生になり、自分が臆病だと悩み続けることになる人もいるかもしれません。

そして、少しでも自分を受け入れてくれると思える人が出てくると、そこに一極集中で依存してしまう、なんてことも起きるでしょう。

 

それぐらい「失敗する自分には価値がない」と思い込み、人が失敗を許してくれる、受け容れてくれる、時にはサポートしてくれる、という経験から遠ざかってきたのかもしれません。

そして、もしそんな時期を過ごしているなら、そりゃ自分のことも人のことも信頼する余裕なんてないと思うのです。

むしろ今を生き抜くことで必死になるだろう、と。

そういったプロセスを歩んだことが自分にとって悲しいことかもしれないけれど、しかしそのプロセスを歩んだ事自体は非難されるべきことではないだろう、ぐらい僕は思っています。

もし、自分の周囲に人の温かな気持ちがわかりやすく存在していたならば、きっとそんな思いを抱えることはなく、お互いさま、支え合いといった感覚を感じることもできたのかもしれない、と思うのです。

***

これは余談ですけれど、僕自身もそのような世界を見ながら、いわば人を疎み、憎みながら生きていた人間の一人なんです。

誰に助けてもらっても治らない病気や、それに伴って起きる苦痛を感じる人との関わりの中にいるうちに、かつての僕は「助けてほしい」と伝える代わりに、色んなものを諦めて自分を恥扱いしました。

自ら遠ざけ、ひどい悲しみと引き換えに、人を全く必要としないような選択をとったのです。

だから、僕は人が温かな気持ちを持っているという認識も、自分が温かな気持ちを持っている認識も、あまり感じられないまま大人になってしまったところがあります。

残ったのは人に対する恐怖ばかりでしたね。

もちろんそんな自分がボロボロだったことには違いないですが、プライドだけはいっちょ前にあったので、それだけで意地になって生きてきたってところが本音です。

「絶対に人なんて頼るもんか」

それほどまで失敗した自分を恥じ、何もできない自分を恥じ、人と同じではない自分を恥じていた。

決して知られたくない自分がいる。

だから、人が自分に対して無関心であることを望みながら、しかし無関心な人がいることで傷つくのです。

長い間、この矛盾の中で生きてきましたっけね。

それがかつての僕そのものなんです。

 

が、今はまぁねぇ、自分自身がこの世界に入り、ちょっとばかり心も体も丸くなりまして(^^;

いわゆる「お互いさま」「持ちつ持たれつ」「支え合い」といった感覚がわかるようになったというわけです。

それでもまだまだネガティブな意味での自立は強くて、そこは日々コツコツと自分が望む方向に変えていこうと意識し続けている部分があるんですよねぇ。

 

とりあえず自分を信じられる材料を見つけよう

とりあえず「自分を労ろう」「自分の好きなことをしよう」ということで、ある程度人を信じられるようになる人がいるなら、それはきっと幸せなことです。

が、強く「自分に価値があるかどうか」と疑っている人にとっては、自分を信じたところで、いつか価値を失ってしまうと思えばそれは意味がないことだ、と感じるでしょう。

それぐらい自分を恥ずかしいものとしか扱えなくなってしまっている場合も多々あります。

だから、人の愛や思いやりなんかで救われるわけがない。自分に何ができるかが全てだ!と思い込んでいる人も少なくないのかもしれません。

だから、未だ人に頼むをすることが苦痛なんです。頼めば自分の価値が下がる、と思いこんでいますからね。

もしそんな思いを強く持っている人がいるなら、まずはもうちょっと自分を信じてみてみることから始めてみてもいいかもしれません。

一時的には調子に乗ってOKなので、自分ここがすげー、これがいいところ!とアクセルを踏んでみましょう。

もちろん、調子に乗りすぎて人からの承認を求めすぎたり、調子に乗ってマウントを取ろうとすると、まぁ誰かにその鼻をボキッと折られますが(^^;、それもいい経験ですし、それこそ自分を守ってもらえていることなんですよ。

で、その自分の素晴らしさを人のために使ってみましょう、意識的に。

人をアテにせず頼っていない時期は、そもそも人に与えていることがあっても、そこに価値を見いだせていないことが多いんです。

自分で「すごいよね」と思ってみても、そこに共感や承認をもらえていない(もらっていても受け取っていない)ので、結局は「これでいいの?」って不安を感じちゃうんです。

だから、なかなか自分を認める・承認する方法がうまく働かない場合もあるのです。

だから、自分で自分に、よりも先に、「意識的に自分から与えてみる」といいんです。

ちょっと勇気はいるし、拒絶されたら嫌だなぁと思うかもしれないけど、得意なことなら喜んでもらえる可能性が高いわけですよ。

いわば人に貢献することを意識してみることなんです。

それですらリスクを感じるなら、自分から挨拶だとか、ありがとうだとか、そういった感謝などを伝えるようにしましょう。

そこで「自分から人にいい影響を与えられるし、人は反応してくれる」ということを知ることが何よりの学びです。

どこか全く失敗が許されなかった世界にはなかった、人の反応、温かな人の気持ち、感謝、思いやりに触れることです。それを繰り返すことですよ。

すると「人と向き合えるかもしれん」「繋がれるかもしれん」という淡い感覚がやってきますから。

まずそこから始めるといいですよ。

 

愛してくれた人・支えてくれた人を思い出す

さらに「人にお願いができない人」が、その状態をより良い方向に向けるためには、「自分のことを思ってくれた人、愛してくれた人を何人思い出せるか」がカギになります。

そもそも戦場のような失敗の許されない世界にいれば、愛してくれたり助けてくれた人がいても、その存在は焼け石に水的感覚で消化されてしまうものです。

要は、どんな人の優しさも慰めのようにしか感じず、シビアな現実(だと思いこんでいる感覚)の方を強く感じるものだと思うのです。

しかし、それでも自分を愛してくれた人、支えてくれた人、いいと思ってくれた人、幸せを願ってくれた人は存在するもの。

その人を思い出して、その人に心のなかで感謝していきましょう。

「そんなことをしてなんの意味がある?」と思われる方がいても不思議ではないのですが、そう思ったらこう考えてみましょう。

「なんの意味がある?と思うのは今の自分のため。

相手に感謝するのは未来の自分と相手のため。」

そして「相手の感謝することは本当の自分の価値を知るための扉」であると。

僕は「いつまでも自分のことばかり考えて、一人で慰めてばっかいるんじゃねーよ」と言いたいわけじゃありません。

きっとそう思っているのはあなた自身ではないでしょうか。

ただ、その選択しかなかったあなたを誰が責められましょうか、なんて風に僕は思うのですよ。

そうではなく、もし自分が戦場のような世界から抜け出したいなら、そこが「戦場ではなかった(のかもしれない)」と自らが認識できればいいってことなんですよ。

ま、実際のプロセスは文字で書く以上に結構な葛藤を伴うものになることも少なくないわけですが、しかしこれは自分で選択できるわけです。

たとえ戦場のような過去の世界であっても、そこで自分に対して愛を向けてくれている人がいたなら、その愛を見つけて受け取って感謝することが「戦場」を「戦場ではないもの」にする方法。

それがたとえか弱い微かな光であったとしても、自分に温かな気持ちを向けてくれた人を思い出すことを繰り返すことが、もう一度自分の価値を知り、それを受け取るプロセスそのものになりますよ。

ただ、このプロセスは誰かに言われてやるようなものじゃありません。

自分が変わりたい、この生き方を変えて幸せになりたい、と思われるならチャレンジされてみてもいいかな、と思うのです。

なぜなら、戦場を生き抜いたあなたが間違っているわけではないからです。

ということで今日の話をまとめると。

・超絶恥ずかしがり屋ほど、人に頼むのは苦手になる

・恥ずがしがり屋ほど、何かを与えないと愛されないという思い込みを持つ

・自分をあれこれ見つめ直したり、人に与える/感謝するなど好意を通じて、「お互いさま」「持ちつ持たれつ」「支え合い」といった感覚がわかるようになればいい。

って感じになりますね。

なんか長くなっちゃったなー。

何か参考になればと思いつつこれで終了。

 

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