恋愛の心理学

「愛する」と「犠牲」の違い 〜相手を理解し受け入れるにはどう向き合えばよいでしょうか?〜

浅野さん

時々こちらのブログでコラムを読んでは、コミュニケーションについて勉強させていただいています。
先日、YOUTUBEでセミナーの様子を拝聴しまして、競争率の激しいカウンセリングも受けたいと一層思うようになりました。

40歳の誕生日を3時間に迎えるこのタイミングで(笑,泣)本日はこちらから質問させていただきたいと思いました。

恋愛関係や夫婦関係において、愛するとは相手を理解すること、相手がしてほしくないことはしない事、ということを聞いたことがありますが、どうしてもそこには我慢や遠慮が伴うようなイメージがあります。
相手の考えややり方についてすんなりと受け入れられることばかりではないです。

相手を理解し受け入れるのに、そのような問題とどう向き合えばよいのでしょうか?

よろしくお願いします。

ネタ募集ネーム:ももこさん

ももこさん、ネタのご協力ありがとうございますm(_ _)m

僕のYouTubeもお聞きいただいたのですね。ありがとうございます。

ちょっと昔の音源ばかり出ているので、今のセミナー感とは違うかもしれませんが、いや、嬉しいです。本当に。

僕もももこさんとお話できたら嬉しいです。

 

さて、ご質問は「相手を理解し受け入れるのに、そのような問題とどう向き合えばよいのでしょうか?」ということですよね。

「愛するとは相手を理解すること、相手がしてほしくないことはしない事、ということを聞いたことがありますが、どうしてもそこには我慢や遠慮が伴うようなイメージがあります。」

と書いてくださってありますけど、いや、ホントいいご質問をいただけたなぁと思っています。そうなんですよ、一般的に相手を受け止める、理解するって我慢や犠牲のイメージが付きまとっているんですよ。

ということで、早速回答編へ!

 

愛と犠牲の違いは意外と明確です

愛するとは相手を理解すること、相手がしてほしくないことはしない事、ということを聞いたことがありますが、どうしてもそこには我慢や遠慮が伴うようなイメージがあります。
相手の考えややり方についてすんなりと受け入れられることばかりではないです。

そう、そのとおりですよね。

いつも相手の考えややり方を受け入れられるわけじゃないですよ。

ただ、この「相手の考えややり方を受け入れる」という言葉がキモなんです。

この言葉を「自分の考えややり方を抑える、変える、相手に合わせる」って解釈する、すなわち「自分の考え、やり方を殺す」と考えると、我慢や犠牲となっていきます。

その我慢や犠牲を「相手を理解すること」という言葉として解釈すると、まぁ腑に落ちないわけですよ。

相手のために自分を殺せっていうの?それが愛することだっていうの?と勘違いしたまま「もっと愛しなさいよ」と言われたら、さてはてどんな気分になるでしょう?

じゃあ自分は?自分のことは?自分の気持ちはどうなるの?って思いませんか?

僕もそう思いますよ。

いくら仕事であっても「自分のやり方や考えをずっと殺していなさい」と言われたら、流石に腑に落ちないでしょ?それを相手に求めるのもどうかと思いますし。そもそも愛することの選択肢は自分にある。自分が愛するかどうかを決めるわけです。

そもそも愛するってことは、誰かに言われてやるものじゃないですよ。自分がしたくてするもの。

もし、万が一、この世界で使われている「愛する」という言葉が、このような意味ならば、そりゃ愛しつづけることなんて難しいし、誰も進んでやらなくなっちゃうんじゃないか、と僕は思います。

ただ、僕の考え方では、これこそ「犠牲」です。

愛の皮をかぶった罪悪感の声であり、相手のために自分を殺す殉教のような考え方です。

そして犠牲=愛だという観念を僕たちはどこかで持っているのかもしれませんね。

僕がお伝えしている「愛する」とは、相手の幸せを願うこと、です。

相手の幸せを願うからこそ、相手の考えを受け止めるし、理解するのです。

相手の幸せを願うからこそ、相手のしてほしくないことは当然のことながらしないのです。

つまり、相手を愛するかどうかは、自分の意志以外の何ものでもありません。(そう思えないから自分を責めるってのも罪悪感の罠ですのでご注意を〜)

そう考えると、愛したくなきゃ愛さなきゃいいだけで、愛したければ愛せばいいってことですよね。

つまり、「愛する」とは相手の幸せを願うこと。「犠牲」とは自分を罪悪感で追い詰め殺すこと。

愛することは相手を思う気持ち、犠牲は自分の罪悪感がベースとなった行動なのです。

僕たちが本当に幼い頃、「パパやママのこと大好きって言っていい?」なんて聞かなかったですよね。ただ大好きだって思ってそう行動していましたよね?それと同じです。

ただ、僕たちが生きていると、どうしたって傷つきます。

ときには、自分が間違っているんじゃないか?と疑ってしまうこともあります。自分じゃ相手を喜ばせられないんじゃないか?と感じることもあるでしょう。

すると、「ねぇ、この私があなたを愛してもあなたは喜ぶの?」という疑問が生じる。これを自己懐疑といいます。

「喜んでくれなきゃ、愛さないよ、だって私が傷つくもの」

そう思うようになるんです。傷つく恐れが愛を止めるんです。

愛して傷つくぐらいなら愛さない、関わらない、相手のことを受け止めない。

もう傷つきたくない。もうあんなつらい思いをしたくない。もう失敗して恥をかきたくない。

だから「もう心から相手を愛さない」と決め、生きるようになる。

これが「自立」ってことです。自分ひとりで生きていくって決めるんです。

ただ、このとき「自分から愛を止めた」という感覚が罪悪感をつくります。私は愛していない、相手の幸せを願っていない。その事実が自分を苦しめるわけです。

でも、それは自分の問題だから一人で抱え込むことになります。

その結果「私ってそんなにいい人じゃない」とか、「もっと愛してもらわないとだめ」「自分は間違っていない(罪悪感の否認)」「相手が間違っている(被害者意識)」「いつも頑張っているけれど力が足りない気がする(自分を認められない)」なんてことが起こります。

そんな気持ちを抱えて悩まれている方も少なくないのかな?と僕は思っています。

ただ、そのままの自分じゃ頑張れないし、与えられないし、愛さないことを続けても人間関係はうまくいかない、って僕たちは知っている。

だから別の方法を使うわけです。

そこで出てくるものの一つが我慢や犠牲なんです。

自分が我慢すれば、自分を殺せば、相手は救われる、そんな気がするんです。

ここにある気持ち、誰も否定できないと思うんです。自分を殺してでも相手のことを思う気持ち、ここまで否定したら何のための心理学やねん、と僕は思うんですよ。

ただ、逆の立場になれば分かるはずです。自分のせいで誰かが我慢ばかりして自分を殺しているとしたら、いたたまれない気持ちにならないでしょうか?

だから、我慢はいくら愛するような意志を込めていても、愛にはなれない。

だから、そもそも自分や人に我慢を強いる、犠牲を強いるってのも超エゴなんです。

それこそ自分の問題で無力さの象徴なのです。それぐらいの価値しか自分にはないから、十分に相手に与えてあげられないから、「ごめん、辛抱して」「君も同じように(犠牲して)頑張れ」と伝えてしまう「苦しみ」そのものなのです。

そう考えると、犠牲とは「自分が愛してもいいの?」と疑っている人が使う、相手への思いの伝え方なのかもしれませんね。

 

 

愛するために何をすればいいのか

「愛することは相手の幸せを願うこと」ですから、心から相手の幸せを願えばいい。

たとえ何もできなくたって、祈ればいい。

愛とはそういう私達の意志なのだと僕は思っていますよ。

何もできないと思っていたり、何もしないと決めているから犠牲が強まるんです。

「自分が相手を思っても相手は喜ばないんじゃないか、だって私は一人で生きると決め、誰の思いも受け取らないように生きているんだから、相手もそうなんじゃないか。」

他の誰でもない、自分がそう感じてしまうわけです。それこそ投影の法則ですよ。

だから更に愛することが怖くなる。自分の気持ちが伝わらないんじゃないかという不安が強くなって、また何もしなくなるのです。でもそれじゃまずいから、犠牲をするんですよね。

 

また、犠牲はとても苦しいものですが、愛することは「相手の幸せを願うことで、相手も自分もとても良い気分になれる」のです。

心の法則は物質とは真逆。

一度怖いと思うと、それからもっと怖くなるのと同じように、感情は強化したものがどんどん強くなりますからね。

愛は与えた分だけ自分の中でその光を増していきますからね。

だから、愛する〜相手の幸せを心から願う〜ことで、自分自身がどんどん楽にもなるし、どんどん優しく、温かく、素晴らしい存在だって感じられるようになるんです。

 

そして、もう一つ。

自分が心から愛するには「自分に向けられた人の愛を受け取ること」も必要です。

愛を与えないだけなじゃく、受け取らないことでも罪悪感を感じちゃうものなのです。

「私はわたしを思う人の気持ちを受け取らず、相手を傷つけている」という罪悪感です。

だから、まぁ自立を強めていると犠牲や義務感ばかり生じて苦しくなってしまうものなんです。

 

最後にご質問にお答えします

「相手を理解し受け入れるのに、そのような問題とどう向き合えばよいのでしょうか?」

と書いてくださってありますね。

まず、相手を理解し受け入れたいなら、自分の愛に気づくことです。

自分がこんなにも相手のことを思っているんだという気持ちに素直になることですよ。自分で自分の愛情に疑いを入れているうちは、愛さないか、犠牲するか、全て義務感でこなすか、役割(母、父、男、女、など)にハマってその役割を演じることになりますから。

 

次に、自分の中に傷(疑い)があるなら、それはなぜ生じているのかを見つめて、できれば癒やすことです。

僕たちはそもそも愛さないという意思を持って生まれてきたわけじゃないんです。でも、生きているうちに傷ついてしまい、その傷が「もう傷つきたくない」という気持ちを作る。

そして自分から愛することを止めてしまうわけです。

そう考えると僕たちのどこにも「罪」なんてないわけですけど(愛を止めてしまった事自体も罪ではないのですけど)、しかし愛を止めるから自分が罪悪感を感じてしまうわけですよ。

このもう「やってらんねー」と思えるようなループから抜け出すために、自分はどのように傷ついて来たかを知り、そしてその傷を癒やすことです。そしてその傷から「愛されないことは辛い」と学んだなら、その辛さを使ってもっと上手に人を愛せばいいんです。

 

そして、自分を愛する人の思いも受け取りましょう。

自分が想像している以上に、人は自分のことを思ってくれている場合があります。

自分が愛を止めているとなかなか受け取りづらいですけれど、人の思いに触れ、感謝して受け入れるんです。

すると、「人にとって自分は大切な存在なんだ」「人も自分と同じように人を思う存在なんだ」と思えるようになります。

これこそ「信頼」です。

この感覚がちゃんとキャッチできたなら、自分のためにも相手のためにも犠牲せずに愛せるようになりますよ。

 

簡単ですが以上です。何か参考にしていただければ幸いです。

カウンセリングを利用する
カウンセリングを受ける

本当の幸せを見つめる・見つけるカウンセリングが人気!
心理カウンセラー浅野寿和のカウンセリングのご利用方法はこちら。

カウンセリングのご案内ご予約可能時間のご案内