日常に使える心理学

無関心さをどう乗り越えるかについて考えてみた

無関心さはとかく愛のない行動と捉えられるもの。しかし・・・

僕たちはどうしても「自分の気持ち」を受け止めてもらえず、無関心な態度を取られると残念な気分になるものです。

自分の気持ち、特に善意や好意に対して無関心さを返されるとつらい気持ちになりますよね。まるで全身がバラバラになったかのような痛みになることもあります。

逆に「もう人には期待しない」「恋愛には期待しない」と感じることもあるでしょう。一人になりたい、もう深く人と関わりたくないと感じる人がいても不思議ではないのかもしれません。

だからカウンセリングでも「気持ちが伝わらない」ことから起きる、自信喪失、挫折感の問題、罪悪感の問題はしっかり癒やすべきテーマとして扱うことが多いもの。

一方、人からの無関心さ、理解のなさをどう捉えて、自分自身の気持ちを整え、前向きな気持ちを維持していくかも、カウンセリングの中で大きなテーマになるものといえます。

恋愛や夫婦関係では自分なりの愛情を受け取ってもらえないとき。
仕事などでは自分なりの努力や提案を理解されずひどく落ち込むとき。

それ以外にも生きていれば起こり得る「無関心・無理解」と、そこで感じるネガティブな感情とどう向きあえばいいか悩まれている方もいらっしゃいます。

そこで、今回は無関心さとどう向き合うかをテーマにします。

 

信頼しているのは「自分の問題」だった

この話はとかく分かりにくいので僕の経験を使って解説していきます。

僕がまだカウンセラーとしての修行をしていた頃の話。まだ20代そこそこで、自分の腕もなかった僕は、その当時の師匠とよばれる人に面倒を見ていただきました。これはいまでも感謝し続けていることなんですよ。

が、その師匠はあまり僕の気持ちや悩みに関心を示してくれたわけではないんです。基本「まぁ頑張って」もしくは「これやって」と話すだけ。

もちろん具体的な質問にはたくさん答えていただきましたし、その答えは今も僕の心のなかで生き続けている大切なものです。

ただ、なにを話しても僕の不安や自信のなさには全く興味を示さないのです。

もうね、ビックリするほど基本「スルー」。

あんまり書きたくないですけど(書いちゃうけど)その当時の僕はその師匠に不満を感じていた時期がありました。

なぜこの不安を理解してくれないのか。流されちゃうのか。その気持ちも解決したくて相談してる部分もあるんだけどなぁ、と。

まぁまぁ師匠の無関心さに苛ついていた、というわけですね。

 

ただ、長くその師匠にお世話になっていくと、その師匠が普段、物事をどう感じていて、何を考えているのかが次第に感じ取れるようになっていくのです。

すると、これは僕の勝手な捉え方でもありますけど

「なぜ基本スルーなのか?」が、無関心という意味だけではなく、「ん?この人は僕の不安を信頼していないってことか?」と思えるようになってくるのです。

その当時の僕は、自分を未熟、十分ではないと感じていましたよね。だからちょっと勝ち気な部分が強かったんです。それは自分の弱さを隠すために、ですけどね。

その内面では不安や不十分さばかりを感じていたんです。だから、勝ち気なんだけど、不安をわかってほしいとも願っていた。

まぁそんなにキャリアもないのに信じられるものなんてないだろう、と自分で自分を信頼しないための根拠だけはしっかり持っていましたからねぇ。

しかし、この師匠はどうやら違うのではないかと思うようになって、自分の感じ方が変わるのです。

(この前提には僕が修行をやめなかったことと、師匠を信頼していた、という事実はありますけどね。)

もしかするとこの人は、ものすごく一方的ではあるけれど「お前ならなんとかできるやろ」と思っているのではないか。

だから、僕から不安を伝えてみても「ふーん」で済まされるのではないか。

いや、さすがにそれは僕が師匠をよく見すぎているだけじゃないか??

ただ、全く僕に関心がないならそんなにいつも関わってくれるとは思えない。

うーん。さて、何を信じてみようか。

もしこの無関心さに隠れされた「師匠は僕の不安を信頼していない」という意味が、仮に真実だとして考えてみるとどうだろう?

そうか、これはとてもありがたいことかもしれないな。

未だ僕が信頼できていないことをこの師匠は信頼してくれているのかもしれない。可能性を見てくれているのかもしれない。

もっと自信を持て、ではなく「そもそもお前にゃ不安はふさわしくないよ」といいたいのかもしれない。

だとしたらこの無関心さは、ネガティヴな意味だけじゃないな。

そう思えたのです。

この感覚が僕の中でぐっと開いたとき、こんな気づきもありましたよ。

自分の親やパートナー、仲間なども同じだったのではないか?今はもう会うことがない過去の仲間や友達もそうだったんじゃないか。

自分を信頼せず、罰していたのは自分であって、信頼してくれていたのは他の人ってこと?

まさかそんなはずは、といくら否定しても、人を信頼することで得られるメリットのほうが大きすぎて、僕は関わってきた人の無関心さを、不安ではなく信頼として解釈することが増えた、というわけです。

えぇ。とっても合理的な考えで判断した、ということなんですけどね(^^;

 

2つの「気持ちがわかってもらえないこと」の意味

実は「気持ちがわかってもらえないこと」には2つの意味があるといえます。

1.無理解・無関心。自分に気づいてもらえない。

2.自分が訴えたい気持ち(怖れ・不安など)は、相手にとっては全く問題ではないと認識されている

「1」の意味は非常にわかりやすいと思います。自分なりの好意、善意、努力、相手に対する愛情などをまったくないものにされてしまえば怒りもわくでしょう。自分の不安、苦しさを理解してくれない人にはネガティヴな気持ちを抱きやすいものですよね。

だから、私の愛情などを理解しないパートナーには愛想が尽きるものかもしれません。ま、やってらんねーと感じやすいといいますか。

だから、自分自身の気持ちが乱れていたり、自分を責めているときほど、相手の無理解は「1」の意味でしか捉えられないものなんです。

その時、自分のことをどこか不十分だと感じていることが多いのです。

例えば、私は大失恋を経験するような不十分な人間なんじゃないだろうか。
私はどれだけ我慢して努力しても不十分でもっと努力しないと相手を喜ばせられないのではないだろうか。

そう感じていることが多いのです。

これは「私は不十分」「私はうまくできない」「私は罰せられる」「私が悪い」といったネガティヴな自己概念を持ち、自分を許せずにいるときに感じます。

言い換えるならば「自分は罰せられるべき」「自分の弱さや不十分さは責められ、愛されない」と思いこんでいるときほど、人の無関心さは自分へのダメ出しの材料に使われる、ともいえますね。

一方、自分自身を肯定的に見つめ、「自分って愛されるにふさわしいんだな」と感じられていくと、「2」の意味が分かってきます。

もちろん「自分はきっと愛される」「人の喜びなんだ」と感じる人にとっても、「気持ちを分かってもらえないこと」は残念で辛いことに変わりはありません。

ただ、同時に「相手は私の問題には興味がないのかもしれない」という認識を持つことができるようにもなります。

自分に悩みがあったとしても、「相手は私のように深刻に捉えていないのか」と感じるのですね。

 

一般的にはここで「それぐらい私の気持ちを蔑ろにしているのでは」と感じるものですよね。

その理由は「自分の不安、苦しみ、自信のなさ」を理解してもらえていないと感じるからでしょう。「こんなに私があなたのことを考えているのに」「不安で辛い思いをしているのに」どうして無関心でいられるのだ!と思うわけです。

そのお気持ちもよく分かりますし、その感情が間違いだとは誰も言えないと僕は思いますよ。

 

しかし、自分を肯定的に見つめられるようになっていると

「そうか、自分だけなんだな、こんなに深刻に悩んているのは」
「確かに自分にとっては深刻な問題。ただパートナーはその問題に興味を示していない。つまり、パートナーは私の問題を信頼していないってことか」

と理解できるようになっていくんですね。

自分を肯定的に見つめていると、起きた出来事も肯定的な意味合いに寄せて解釈していけるようになるわけですね。

 

また、自分を受け止め、肯定していくと、いわゆる問題は自分を責める材料ではなく「メッセージ」という意味になっていきます。いわば「自分に何かを知らせてくれるもの」と捉えることが多くなるのです。

だから、人の無関心さも「そんなもの」「辛いこと」とだけ捉えず、「この事実は自分に何を伝えようとしているのだろうか」と考えていくことができるようになります。

その結果、例えば「相手は私を信頼し受け入れている。私の悩みや不安を信頼していない。それぐらい相手は私が素晴らしいと感じてくれている(のかも)」とも解釈できるわけです。

つまり「自分にとって否定的な意味合いでの解釈」と「君に問題があることが問題だと思っていないよと相手は伝えている」という解釈の両面が持てるようになるってことです。

そこで初めてどちらの解釈を採用するか、選択できるんですよね。

もし「相手は私の不安や問題意識が真実だと思っていない」と理解できれば、自分や相手を傷つけることはなくなっていくのです。

もちろんそのためには自分が相手を信頼している状態が欠かせませんけどね。

 

ここ、ちょっと難しいですね。特に自分に我慢を強いていたり、自分を厳しい目で見る癖がついている方ほど混乱しちゃうかもしれません。

でも諦めずなんどもじっくり読んでみてくださいね。

 

結局は「自分をどう見ているか」次第です

僕たちはやはり人からの無関心さで傷つくことがあるし、傷つくことが間違いだとは言えないと僕は思います。

だから、人に無関心でいることを積極的に良しとしているわけでもありません。また、無関心さで傷ついちゃう自分がダメなの?と思う必要はあまりないと考えています。

ただ、人の無関心さを自分がどう捉えるかは、自分次第で選べそうです。

そして、無関心さに強くなるためには自分を信頼することが第一歩。

日頃から「自分がいい気分・感情を感じる行動を取り入れる」ことがポイントになります。

自分から与え、人を理解し、感謝し、受け入れること。

自分のことも同じで、自分の感情を受け入れ、反省するところは反省し、いい部分は承認する。

特に自分の判断だけで人を解釈せず、相手の気持ちを知ろうとすることが大切です。(もちろん相手が自分に対して無関心なだけなら、そんなに深く考えなくてもいいかもしれませんが。)

究極的には、「人の無関心さ」への意味付けも自分が行っているもの、ともいえます。

そこでいい意味をすべての人に向けることができればいわゆる無敵状態に近づきます。

ただ、まずは自分の身近な人に対して向けることから初めてみるのがいいんじゃないでしょうかね。

それができるだけでも、随分と無関心さの解釈が変わっていきます。すると、無関心さを向けられてもあまり気にしなくなったり、受け止めることができるようになりますよ。

最も無関心さで打たれて傷つきやすいのは、自分のネガティヴな判断だけで物事を見続けている、その状態を変えないこと。

罪悪感などではなく、良い気分を感じることを繰り返すことで、人の無関心さも受け止められる視点を養うことができますよ。

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