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ほぼ30代からの心理学

分離と憂鬱のある世界は美しい。しかし豊かさと対立することにもなる。

今年のゴールデンウイークは僕が所属するカウンセリングサービスの母体神戸メンタルサービス主催のヒーリングワークショップにトレーナーとして参加しておりました。

なので、ブログの更新も少しお休みする日があったわけですが、今日はそのワークでもらったインスピレーションを少しまとめておきたいと思った次第です。

これは間違いなく僕の過去の話であり、「どのようなプロセスを歩むと、幸せ・豊かさ・喜びを感じられるようになるのか」という話でもあります。

もしご興味があればどうぞ。

 

分離と憂鬱が見せる世界は美しい

恋愛でも対人関係でも、お金にまつわる問題や仕事についても同じなのですが、いわゆる「痛み」「罪悪感」から見る世界観を持ち、実際にそのような価値観の中で生きることで、なぜか気分が安定する人がいる、なんて話があります。

そういった方から伺うご相談の多くは、「一般的な幸せなんていらない。豊かさなんてどうでもいい。でも、この人だけ愛せればいい。」なんてお話が多いんです。

どこか、お互いに孤独を抱え、お互いに人と分離した世界の中で、二人だけが寄り添いながら生きている、そんな心象風景が見えるかのようなお話なんですけどね。

そういった方のお話を伺うと、とかく「分離と憂鬱」に纏わる話がよく出てくるんです。

例えば、普段から喜劇やラブロマンスより悲劇ばかり好んで触れたり、世の儚さに魅力を感じたり、メランコリックな価値観の中に美しさを見出すようになる、といったような。

どこかで孤独であって、なぜか「報われない」という世界。

その中に、人の強さや自分自身の軸(主体性、存在証明)を見出すような感覚です。

そして、分離と憂鬱のある世界観の中にハマり、自分だけの価値観の中で生きることで悦を感じる、なんてことも少なくないんじゃないかな、と思うのです。

 

実はですね。

まぁ、僕のクライエント様で勘の言い方ならもう気づかれていると思うのですけれど、かつての僕はこの感覚の中に美と生きがいを見出していたのです(^^;

まぁこの世界の住人だったというわけです、平たく言えば。

どこか孤独で、分離感の強い世界の中で、正に分かる人だけが分かる美しさとその景色を数少ない人と分かち合いながら過ごしていた時期は長かったように思います。

うーん、あまりにマニアックな話で恐縮ですが、しかしこの生き方が当時の僕にとってとても心地よかったのです。(よって、今でもその面影が残っており、普段から妙に音楽だけはマニアな感じが抜けず、周囲に「聞いたことがない」と言われるような音を聞き続けているわけでございますな。)

それほどまでに僕の内面には「分離感〜自分は人と違う・つながれない〜」という感覚があって、逆に「自分は人とは違うんだ」と言い聞かせ、そこに価値を見出して生きていたような気がします。

いわば、一般的な世界観、価値観から逸脱した自分や存在を愛していた、といいますかね。

そして、そこにあるメランコリーの中にどっぷり浸かって生きていたような気がします。

今思えば、そうでもしないと孤独すぎて自分を支えられなかったような、そんな感覚が僕の中に残っています。

もちろん自分が信じていた価値観でさえ、どこか愚かで生産的ではないと感じてもいたんですけどね。しかし、憂鬱が見せる美しさに陶酔していたような気がします。

ま、そんな時期が僕にもあったということなんです(^^;

そして、稀にですが同じような価値観を持つ方とお話することもあるってわけですね。

そういった方と出会うと、どこか懐かしい感覚がするんですよ。

あぁこの感覚、よく知ってますよ、おかえりなさい、って感じでね。

 

豊かさと対立する人々

ここで、例えばこの世界観(価値観)を持つ人の恋愛について語るなら、その恋愛はどこかで「痛みを抱えた人間」対「その痛みにふれる人間」といった構図になることも少なくないんですよね。

だから、いつも好きになるパートナーが痛み(問題)を抱えた人ばかりだ、という話になったりもします。

また、日常生活や生き方について語るなら、普通の過ごしているだけなのに、結構な不利益を被ったり、自分の考えを理解してくれる人があまりにいなくて切ない思いを抱えがちだ、なんて話にも繋がります。

人によっては、自分は人と違うという分離感が強い分、対人関係の中でも浮いてしまいやすい存在で困っている、なんてことも起こりますね。だからいつも自分を演じて生きていて疲れ果てている人とも出会います。

分離しているからこそ仕事でも自立的なスタンスばかり取ってしまい、何事も一人で抱え込んでしまって燃え尽きていたりなんてことも起こりますよね。

とにかくまぁいろんな事が起こるようです。

ただまぁ、分離と憂鬱を抱えた生き方がオルタナティブだとか、エッジが効いててカッコいいと思う人もいるのでは、と思いますけどね。(僕もそう思うかな)。

が、生きている本人はとかく「心のガス欠」になりやすいのかもしれませんね。

ここでのガス欠とは「生きるためのエネルギー」「やる気や意欲を持つ」「目的意識を持つ」「計画的に生きる」「怒りのセンタリングして集中する」ことが難しくなるだけでなく、人と関わるときに「どうすりゃうまく関われるのさ?」と考え込んでしまいやすくなるってことなんです。

だから、まぁ30代前半辺りから、ぼんやりと「この先どうしよう」「目的が見えない」「最近喜べたことがない」「やりたいことが見つからない」なんて感覚を抱えている方もいるようなんですよ。

実際、そういったカウンセリングも少なくないですしね。

なぜそうなってしまうのかといえば、そもそも自分が感じている感覚が憂鬱や痛み、分離であることでしょうか。

自分がその価値観で生きている以上、自分と出会う人だけでなく、パートナー、仕事などにも同じ要素を求めちゃうんです。そうじゃないと自分とつながっているとは思えないわけですよ。

その結果、お互いが孤独、お互いが分離、お互いが無意味、消耗するような関係性に突入していくこともあるようです。

 

そして何より特徴的なのは、こういった方ほど一般的にいう「幸せ」「豊かさ」と対立するような価値観を持つようになる傾向があることでしょうか。

一般的な幸せ、豊かさにまみれてしまうことで、自分が自分でなくなってしまうことを恐れているわけですよ。

それとは全く逆の感覚で自分を支えているわけですからね。

優しさ、いたわり、繋がり、ポピュラーだと言われているものなどを受け入れることで、自分が消えてしまう、埋没してしまうと思うようになることがあるようです。

 

そんなとき、僕はこんな話をさせてもらうことがあるんですよ。

「分離と憂鬱のある世界は美しいし、その世界観、僕は嫌いじゃないです。

もうどうすればこんな生き方ができるんだ?どうすればこんな表現ができるんだ?と思えるものと出会った時、感動しますしね。

どこか脳や胃がキリキリするような、身が切り刻まれるような思いをすることで生み出せる価値もあると思うし、その壮絶な世界観はとても美しいし感動するものかもしれません。

しかし、その価値観だけしか持っていないと、どうしても繋がりや豊かさと対立することにもなりかねないようですよ。

そもそも豊かで幸せな憂鬱なんてことはありえないわけで、「豊かで幸せだから喜べる」となることが圧倒的です。

つまり、憂鬱と分離という価値観を強めることで、幸せや豊かさと言われたものと戦う羽目になってしまい、それを否定しながら生きることにもなるかもしれない。

だから、普通の結婚はしたくない、自分だけ特別な生き方をしたい、子供は持ちたくない、家や家庭を持つことも望まない、なんてことが起きることもあります。

それがいいかどうかは別の話ですけどね。

ただ、もし、あなたがカウンセリングやセミナーを使ってでも「幸せ」というものを掴みたいと思われるならばこう考えてみてほしいんです。

憂鬱と分離の世界観から美しさを見出し、痛みから感動を見出すこともいいですが、この世の中にいるできるだけ多くの幸せ、暖かさにに触れて感動し、また、多くの人とつながったほうが幸せになる確率は高まります。

だから、豊かさ、幸せと戦わない価値観「も」持っていてもいいのかもしれませんね。今までの価値観を否定するのではなく、新たに付け加える感じで。

どこか「分離と憂鬱」と「一般的な幸せ・豊かさ」のどちらの価値観をも行き来できる自分でいればいいんじゃないでしょうか。

まぁこうなるとかなり最強感が出てきますし、それこそ多様性だと思うんですけどね、僕は。

ただ厄介なのは、今までの自分の生き方、心の支え、自己概念を変えることにもまた抵抗感を感じることでしょうね。それはもう自分じゃない他の誰かだ、ぐらい思っちゃうかもしれない。

それでも僕は選択肢を増やすことをオススメしますよ。」

 

痛みが連想させるものは終わり。つながりが連想させるものは永遠。

僕は、繋がりや豊かさが見せるものこそ「自分自身が残したものに対する永遠性」だとも思っています。

僕たちの肉体はいつか朽ち果てます。

しかし、僕たちが残せるものは、そうではないかもしれません。

ただ、分離の世界で生きていれば、自分が残したものを受け継いだり守ってくれる人はいないことになる。

逆に、自分が誰かと繋がり、豊かになり、幸せになれれば、自分がこの世に残したいと思えるものを「人に伝える」ことによって残すことができるかもしれないですよね。

それがたとえ詠み人知らずの歌のようになったとしても、です。

この、自分が残せるものを残したいか否か、どう感じるかを決定づける感情が「罪悪感・無価値感」だと思うのです。

もちろん、自分が何も残さないように分離したまま生きることが悪い選択だとは言い切れないと僕は思います。

が、その貢献なき生き方を選んだ自分に、さて、どこまで価値を感じ、どこまで自分を許すことができるだろうか、なんてことを僕は考えたりするのです。

だから、もし自分が幸せになり豊かさを享受したいなら、そしてそれを大切な人に手渡したい(残したい)と思うなら、分離ではなく、人とつながり、支え合って生きる選択が必要になるのだと思うのです。

つまり、たった一人で自分の思いを残すことはできない、ということ。

自分がどんな生き方をしようが、他の誰かが「自分」の思いに気づき、「自分」のことを想い、生きてくれるのかもしれない。

もしそうイメージできるとしたら、今の自分が分離して自立しまくる生き方(自分次第の生き方)が、本当に自分の望む生き方なのかを、改めて考えるきっかけになるのかもしれませんね。

こんなことを僕は考えるようになったので、かつての「分離と憂鬱」の世界観だけでなく、「愛と許し、繋がりと豊かさ」の世界観についても学ぶ気になったってことでもあるんですよ。

それを自分の中に「入れた」といいますか、知りたいと願い、自分から受け入れたと言いますか。

もっと言えば、かつて抵抗していた価値観を持つ人に興味を持ち、関わり、そして「その人達の価値観を学び、受け入れた」と言いますかね。

そのおかげで、「そうか、この人はこんな風に感じているんだ」と理解できることが増えましてね。

カウンセラーとしてだけでなく、一人のおっさんとしても、少し幅は広がったような気がしています。

かつては僕も「自分だけを支えきれればいい」と思っていたわけですけど、今はそうじゃないといいますか。

ただ、僕の中でかつての世界観が消えたわけじゃないのですよ。それも自分にとって大切な価値観の一つです。

そもそもね、このような価値観・世界観の話は、どちらが正しくて間違っているという話ではないと思いますしね。僕はそもそもどちらの世界観もあっていいものだと思っています。

ただ、自分の中にどちらかしか選べない状態だと、他の選択肢を選べないという意味で自分の世界が広がらないよね、とは思っています。

それが今の僕にとっては窮屈なだけなんですよ。それだけではカウンセラーとして手が足りないといいますか、ね。

 

今日はなんだか曖昧なコラムになってしまいましたが、こんな日もあるよねってことでご容赦を。

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