日常に使える心理学

対人関係の礎は「母親との関係」 〜母と分かり合えないときに読むコラム〜

浅野先生こんにちは。

なんどもカウンセリングでお世話になっている怖がりで恥ずかしがり屋のものです。

前回のカウンセリングで、「お母さんと何かしてみましょう、お母さんとお話ししてみましょう」というご提案をいただき実践してみているのですが、母と話が噛み合いません。

昔から思っていたことなのですが、私の会話の意図と全く違う答えが返ってくるのです。

例えば、「お花って綺麗だよね。でも普段せわしく生活しているとゆっくり見ることってないよね。」と私が投げかけると、「春はお花の季節だからね!(知ってる知ってる!)」と言った調子です。

私からみたら頓珍漢な返答が来るのです。
母からすれば、もっとわかりやすく言えってことなのかもしれませんが
私からすればこれ以上どうやって簡単に話すんだよ?と感じるのです。

そして、いくら噛み砕いても伝えたいことが伝わらない、すぐ自分の意見に切り替えて話してくることに、傷付くし正直腹が立つのです。

やっぱり母に話しても無駄だ、という気持ちを強めてしまいます。

こういった母とどう向き合っていけばいいのでしょうか。

ネタ募集ネーム:わんぺんさん

わんぺんさん、いつもカウンセリングをご利用いただきましてありがとうございますm(_ _)m

また、ネタのご協力、助かります〜。ありがとうございますm(_ _)m

また、僕の提案を快く受け入れ、実践していただいていることに感謝申し上げます。

にゃるほど(なるほど)、と思いながらご質問を読ませていただきましたよ。

では、早速お答えしたいわけですが、今回のご質問は「こういった母とどう向き合っていけばいいのでしょうか」ですよね。

このご質問に関する答え、実は僕が「こうですよ」「こうしたらいいじゃん」としれっと出すことができないモノかなぁ〜と思っております。

答える気がないってわけじゃなく、答えだけではご納得いただけないと思うのです。

例えば、夫や彼、友達や職場の人とどう向き合えばいいですか?というご質問なら、「このタイプは〇〇だから、こうしてみるといいよ」と、僕もしれっと答えることが多いんです。

なぜなら、夫、彼、友達、職場の人はあくまで他人だから、という前提が僕の中にあります。

が、家族の場合は、いわば他人と言うにはあまりに単純接触を重ねすぎている対象でもあり、やはり他人とは呼べない対象でもありますよね。

だから、家族、今回の場合はお母さんですが、その向き合い方は、そもそも「あなたがどのように家族を感じ、どのように向き合ってきたか」を示すものになるのです。

そして後でまとめて書きますが、母親との関係はあなたの対人関係に大きな影響を及ぼすものです。

だからこそ、ワンペンさんご自身で気づき、答えを出していくほうがきっとスッキリされるだろうと思うからこそ、明確な答えはあえて書かない方向でコラムを書き進めます。

ただ、ワタクシもそこまで「イケず」ではないので(多くのクライエントさまから「なに言うてんねん、あんた相当なイケずやん!」と突っ込まれそうですが(^^;)、きっとより良い答えが見つかるヒントになるだろう話を書き連ねていきたいと思います。

今日のコラムは10,000字を超える大作になってしまいましたが、もしよろしければ、じっくり何度も読んでいただけると幸いです。

 

なぜ母親との関係を整えることが重要なのか

さて、恋愛、夫婦、対人関係などのご相談をいただくと、我々カウンセラーは「母親との関係」についてのご提案することがあるわけですが、何故カウンセラーは母との関係に着目し、提案をするのか、疑問に思われている方もいらっしゃるかもしれませんね。

まぁカウンセリングのときにその心理的背景や理由は説明させていただくわけですけれど、しかし「なかなか腑に落ちない」とお感じになる方も少なくないかもしれません。

なぜなら、まぁそれほどまでに「向き合いたくない」といいますか、葛藤しやすい話だから、「母と向き合うこと」に関して意味を感じたくないわ(理解したくないわ)と感じる方が少なくないからなのです。

それほどまでに僕たちは無意識的に「見たくない、聞きたくない、理解したくない」と思うことを遠ざけ、まぁ口当たりのいいシフォンケーキのような都合のいい話を聞いていたほうが楽だと思っているフシがありましてね(楽な方に流れるのが人間心理の基本なのです)。

そう考えるとまぁ「自分にとっての真実」を知ると、それを知った段階では衝撃を受けることが多いものなのかもしれません。

もちろん「真実」は決して自分を傷つけることはないのですけど、気づいた段階、それを知った段階では、なんだか人に言われたくないような、傷つくような、苦しいような、そんな気分になることが少なくないわけですね。

特に女性のみなさんにとっては「ラスボスは母」なんて方も少なくなくて、カウンセラーから「母と向き合いましょう」と具体的な提案をされると、「マジか」とお感じになられる方も少なくないのかもしれないな、と想像しております。

そんな葛藤を持ちやすい「母親との関係」を整えることでどんな効果が期待できるのか、といいますと「自分自身の対人関係が整う」という話になるのですね。

 

対人関係の礎は「母親との関係」

一言でまとめるなら、「母親との関係は対人関係の礎」となります。

あなたがどのようの母親と関わってきたか、どのような影響を受けてきたか、そして、母親に自分がどのような影響を与えたと感じているか、など、このあたりが今の対人関係に大きく影響していると考えられるわけです。

私たちは幼少期、特に3歳児までは、母親の絶大なる影響を受けて育ちます。

その上で、父親、兄弟姉妹、祖父母、幼稚園・保育園、小学校などでの人間関係などの影響が積み重なっていくイメージです。

特に「自我が発達する3〜4歳まではほとんど母親の影響下にある」と思っていいと僕は考えています。

それぐらい幼少期の子供は、いつも母親の顔色をいつも伺って、母親が笑顔だと安心し、母親が怒っていると不安になるものなんですよね。

たとえ言葉で思いのやり取りができない状態であっても、母親との間では、非言語的な要素でのコミュニケーション(雰囲気、表情、ボディランゲージなど)のやり取りが頻繁に行われます。

これらは「母親がいないと生きられない」という生命維持に関する本能でもありますけれど、それだけで感情というものを感じる私達にとっての「母親との関係」を語ることって難しいな、と僕は考えています。

やっぱり子供は母親が大好きで、母親に愛されたいし、もちろん「母親を愛したい」という思いがあるからこそなんだと思うんですね。

このように「私が大好きな人に感じる思い」を「母親に向かってずっと投げかけていた(ぶつけていた)時期」が「幼少期」なんです。

これが自分自身の「人間関係の礎」となっていくんです。

これは余談ですけれども、僕も小さい娘の父親です。

だから、仕事柄という意味ではなく、普通に父親として、育児について改めて学んだことがありますよ。

仕事と育児は違うもの。そもそも育児ではもろに「自分の主観(自己概念・家族像・父親像・自分自身の家族や父からの影響など)」が影響することを痛感していたので、改めて学ぶことが必要だと思っていたのです。

すると、学べば学ぶほど、以下のようなことが頻繁に書かれていたのです。

「幼少期の子供がいる夫は、父というより「妻の夫としての役割」が重要でっせ」

これは「特に3歳児までは、お母さんの絶大なる影響を受けて育つ」という考え方を逆の意味で裏付けていると思うのです。

だから、「小さな子どもはずっとママだよなぁ」って思うんです。

何をしていてもママがどこにいるのか探しているんですよね。パパがいても「ママ」を探すんです。

「パパがいるよ、おいで〜」というと「ママはどこ〜」と、パパの存在を黙殺されることなんてのは日常茶飯事、もとい、それほどまでにママを見ているし、ママのそばにいたいのです。

娘を寝かしつけていても、ハッと目を覚まして「ママ〜」と泣き出したことも何度もありましたっけね。

それぐらいママがいないと不安なんです。

パパが抱っこしても、「パパじゃない〜(オメーじゃね〜よ)」と言われたことの数を数えると僕が傷つきそうで数える気にもなりませんな(^^;

いや、何を言われてもぐっと耐え、背中で泣くのが父親業でございます(そんなことはない。)

なにせ父親は娘に自分を投影しづらいので、子供に触れる恐れを超えることができるなら、もうベッタベタに愛せるから(ダイチュキ♡)こそ感じるハートブレイクぅ〜なのですよねぇ(^^;

まぁこの僕の話の部分は完全なるネタですけれど(笑)

 

母との関係の心理的背景には「愛をとどけたい自分」と、今の自分との葛藤がある

さ〜て、これぐらい大好きな母親だったからこそ、あのキーワードも登場するわけです。

そう「愛憎」です。

恋愛でも友人関係でも同じなんですけど、「めっちゃ好き」だからこそ、うまくいかないと傷つくし、傷つくことで「憎む」なんてことも起きるわけです。

全く興味のない人に対して憎しむことなんてないわけですからね。

かつ、大切で大好きだからこそ、その人に愛されないことで傷つくし、「自分の思いや努力(ときにそれは愛と呼ばれる)が届かないことで激しく傷つき」、また「憎む」なんてこともでてきます。

ここでの「めっちゃ好きと感じる対象」とは、どこか「身も心もひとつ(になりたい)」と感じるような対象なんです。

そもそも僕たちは母親のお腹の中で育ちました。その時、僕たちは母子一体だったわけです。

その時からあなたはお母さんとの関係性をスタートさせている、という考え方もあるわけです。

だからこそ、子供の頃はもちろん、オトナになってからも「なんでお母さんは私のこと(気持ち)がわからないの?」という発想が成立するわけです。

さも、「分かって当然」のように感じ、それを求め、要求するような振る舞いをするのです。

これが、今の「親しい人間関係」や「対人関係でのパターン」「恋愛感情を抱く人」との関係に影響するってなんとなくご理解いただけます?

例えば、恋愛感情も「身も心もひとつになりたい」という欲求を感じるものだからこそ「あなたは、君はどうして僕の気持ちがわからない?」って思いやすくなるってことです。

そもそも他人で、違う個体なら「違う存在だから私のことはわからないよな」と理解できるはずなのに、そう感じてしまう。

しかし、母との関係が未だ「オトナ同士」というカタチに成熟していないとしたら、おそらく親しい友人やパートナーに「分かってもらえない」といったことで深く傷ついたり、「分かってもらっていて当然」と感じていて、信頼・尊重ではなく「依存」という形で関係を作ってしまうなんてことも有り得る話なんです。

えー私はそんなことないわって思った方、ご安心ください。僕たちは大なり小なり、そういった影響を残しているものですよ。

だから、そこで「私はそんな未熟じゃないわ」なんて思わなくていいんです。そういった影響はあって普通。むしろ、影響があることは認めてしまったほうが前向きです。

影響があるから、「さて、どうしようか」と考えることもできますし、より自分が成熟した対人関係を身につけていくこともできます。

そもそも親の影響は悪いものだけじゃありません。良いものだってあるわけですよ(母からのギフトと呼ばれるもの)。

それを残すことは全くネガティヴなことではありません。むしろ、母の影響を受けている自分を否定的に見ていることがネガティブなんです。

だから、「あの母親だから今の私があるんやなぁ」と受け入れておくことは、今の自分を受け入れる(自己受容)として意味が出てくると僕は考えています。

いわゆる問題になる要素は「オトナになってもその価値観、つながり方が母と子の関係性のまま」であることなのです。

オトナ同士としての「母と子」の繋がり方、向き合い方できているかどうかってことになります。

その際、不安、恨みつらみ、甘えたい気持ち、理解してほしい気持ちなど、満たされていない気持ちが邪魔をするんですな。

母に愛されるために散々努力してきた子供にとっては、母が自分を理解していない、受け止めていないことでひどい悲しみを感じるのです。

一言で言えば許せないってことなんです。自分を理解しない母を許せないってわけです。

その裏には、母に「わかって欲しいことがあった」って気持ちがあるのですけど、それが「愛してほしかった」という気持ちだけかというと意外とそうでもないのです。

その「分かってほしかった」という気持ちも重要な感情ですが、そこだけにこだわっていても癒やしのプロセスはどん詰まりになることが多いんです。

 

さて、ねぇ、もう僕のクライエントさまやブログの読者のみなさまならお分かりですよね。

昔から、何度も何度もこのブログでも書いていますよね?

「愛されないことより辛いのは、愛が伝わらないこと・もう愛せないこと」だと。

つまり「自分なりの愛や思いが伝わらないこと」が何より辛いのです。

それは僕も未だに辛いと感じます。自分なりの貢献、愛情、信頼などを受け取ってもらえないって感じると、正直傷つく感覚を感じます。

あまり言いたくないけれど、僕の仲間とも同じような話をしますよ。愛や思いが伝わらないって激痛だよね、って。

でも、さんざん受け取ってこなかったのも僕たちだよね、って笑ってるんですけどね。

まぁ、悪意がなかったとしても、自分は無自覚にどれだけの人間に激痛を味あわせてきたのだろう?って思うと、どれだけ自分が愛されてきたことに気付かされるんですけどね。

 

これは子供時代の僕たちにとっても同じことなのですよ。

「私が子供で小さくて何もしてあげられないから、困っているお母さんを助けられないの?楽にしてあげられないの?喜ばせてあげられないの?」

そう思った経験ってないですか?特に愛深き忍耐女子の皆さま♡

それぐらい愛していたのは私、なのです。

が、それが伝わらない苦しさ、激痛が、自分から何かを諦める動機になっていくのです。

だから、自分自身が本当は愛したい人、思いを伝えたい人がいても、つい文句を言ったり、ケチを付けたり、ニーズをぶつけたりなんてことをしてしまうのです。

愛を届けられない自分を感じることで激痛を感じるから

この状態を自ら選び続けているとしたら、そりゃもう超絶辛いですよ。もう泣けるほど辛い。自分ってなんなんだ?と疑ってしまっても仕方ない。

それぐらい「愛が伝わらない」ってのは痛いし、悲しいし、苦しいんです。

そんな自分を自分で許せないから、人にも許してもらえないかも?愛してもらえないかも?って感じるんです。

時には、今のパートナーや友達、仕事などに執着したり、うまくいかない出来事でメッタメタに打ちのめされた感じがして、もう生きている意味を見失っちゃうぐらいの疑いを抱えることもあるんです。

これが苦しみを抱えている自分の正体、悩んでいる自分の正体でもあるでしょう。

もちろんそうなってしまうには事情があります。何の事情もなく、このような状態になることはありえない、と僕は考えています。

だから、もう自分を責めなくていいんです。

そこを自分を批判して責めたとて問題は解決しないし癒やされませんよ。そりゃ筋が違うし、人や自分を叩いて問題が解決するなら誰も悩みはしないでしょうよ。

ただ、この状態のままでいると、どうしても無意識的の加害者意識(罪悪感・無価値感)が強まってしまうわけです。

いわば、「喜びを感じられなくなるのは自分」ってことです。

なぜなら、僕たちには自尊感情があり、なにより大切な人への愛があるからこそ「私は大好きな人の喜びや支え、幸せになれていないのではないか」「だから私は愛されないのではないか」と感じるわけですよ。

そこを変えていく一手を打つこと。

心の面でも、現実の行動としても、そこを癒やし、変えていく行動を取り入れることで、「愛のある私」、すなわち「本来の私」を取り戻せるんです。

それはとても美しく輝く私との出会い、そのものなんです。

 

その一環として僕は「お母さんと向き合ってみたら?」とお話したってことなんですね。

わんぺんさん本来の姿に気づいてもらうためのアプローチだったってことです。

 

オトナになってからの母親との関わり方を考える

さて、ここからはワンペンさんのご質問から「母親との関わり方」を考えるヒントについてまとめていきますね。

昔から思っていたことなのですが、私の会話の意図と全く違う答えが返ってくるのです。

例えば、「お花って綺麗だよね。でも普段せわしく生活しているとゆっくり見ることってないよね。」と私が投げかけると、「春はお花の季節だからね!(知ってる知ってる!)」と言った調子です。

私からみたら頓珍漢な返答が来るのです。
母からすれば、もっとわかりやすく言えってことなのかもしれませんが
私からすればこれ以上どうやって簡単に話すんだよ?と感じるのです。

そして、いくら噛み砕いても伝えたいことが伝わらない、すぐ自分の意見に切り替えて話してくることに、傷付くし正直腹が立つのです。

やっぱり母に話しても無駄だ、という気持ちを強めてしまいます。

ねぇ、母に自分から近づいてもトンチンカンな答えが帰ってくると切ないし、これ以上どうすればいいの?って思いますよね。

ただ、そう考えているわんぺんさんって、お母さんの歩み寄ろうとされているんでしょうね。素晴らしいと思いますよ。

ただ、いい悪いのはなしでは決してないのですが、あなたはなんだか「お母さんのために」動いているような印象を僕は受けるんですけど、さてはてどうでしょうね?

そして、もしあなたが「お母さんのために、これ以上どう分かりやすくすればいいの?」「どうすれば分かり合えるの?」と考えているなら、それは何故なんでしょうね?

だから、「これだけ自分から譲っているのにどうしてトンチンカンな答えばかり返してくるの?」すなわち「いつになったら私のことを見てくれるの?」と感じていないでしょうか?と僕は思っちゃうんですけどね。

それがいいかどうかは別にしてね。

もし、「これだけ私がお母さんに合わせているのになんで?」って思うなら、それこそあなたの対人関係でのパターンではないでしょうか?なんて僕は思ってしまいます。

つまり、それがあなたの処世術であり、愛される秘訣になっていないでしょうか?と。

 

もしそうであるなら、こう考えてみるのも一つの手ですよ。

「自分なりの愛が思いが伝わらなくて辛いのは、私だけじゃないのかも?」と。

もし、あなたと上手な意思疎通ができずにいたお母さんの気持を想像してみると、どんな気分になります?

ここで手放すべきは「正しさ・競争意識」なんですけどね。

例えばもし、「どちらが辛かったとか」「どちらが上手に愛していた」などの観念があるならば、もうさっさと手放すといいんです。

なぜならこの競争は「今までの自分は間違っていなかった」という証明、つまり「実は自分の内面で『今までの自分が間違っていて、十分じゃなかったのではないか?』という自己否定感や加害者意識があり、それを否定したいから」起きることなのでね。

僕は、わんぺんさんがそのような加害者意識を持つこと自体、不要だと考えていますよ。

だってねぇ、こんな海のものとも山のものとも分からない、僕のようなカウンセラーを信頼してくださって(笑)

その提案を快く受け入れてくださり、もう一回「母を理解したい」と思っておられるあなたが、自分の過去を否定したり、罪の意識を持つ必要なんてあるのでしょうか。

僕は少なからずそう考えているんですよ。伝わってました?(笑)

そしてきっと、お母さんもそう思ってるんじゃないかな、と想像しますが、まぁそこは確かめてみてほしいのです。

ただ少なからず、お母さんの意見があなたにとってトンチンカンなものならば、お母さんはきっと「私はあなたのことが深く理解できていない」と感じている可能性は否定できないですよ。

あまりに個性が違いすぎて、感性が違いすぎて、理解できなかったのかもしれませんしね。

ただ、それはもうしゃーないことです。いくら母子でも、個性や感性は違うものですから。

ただ、どんな関係性でも「大好きな人と個性や感性が違うことを認める」ということもまた切ないことです。

言い換えれば、「お互いが違う人間で、分かり合えない部分があると認める」こともまた、切ないことです。

なぜなら「一つではない」と感じるから。

心を通じ合わせ、一つになりたいのに、と思うから。

ただ、オトナになった今、母と子としての関係としては「一つになる必要はない」のです。むしろ一つになったほうが吐き気がするんです(^^;

ただ、お互いの違いを認め、分かり合い、オトナ同士として互いを一つの個として尊重できればいいのです。

そういう意味では「母との関係」において、深い理解を求めたい気持ちが拭えないとしたら、それが対人関係の中で顔を出すパターンとなり、人を深く理解できないことや、人に深く理解されないことでがっかりしてしまうのは自分だ、ということを示すのです。

だから、母と向き合う時「私は何を求めているんだろうか」と考えてみるといいですよ?

もしかして、どこかお母さんに気を使い、受け入れてもらおうとしている自分っていませんか?

それがあなたの「愛し方」ではないでしょうか?

だとしたら、今までの自分を否定することなく、しかし一度その愛し方を検証し、自分のためになるかどうか見つめ直してもいいかもしれませんよ。

 

いいですか。これが最後のヒントになります。

「あなたが愛せないと苦しいように、お母さんも娘を愛せない自分を肯定なんてできない」のです。

だから親は子に「私は間違っていない」と罪悪感を否認したり、もしくは「私が間違っていたのだろうか」と自分を責めるのです。

その罪悪感の罠には引っかからないことです。

その根っこには「うまく愛したい」「理解したい」という気持ちがあります。

多くの人にこの気持は存在し、私達は、親子、家族、子供、パートナー、親友など親しい人に対して、そう願い続けているのです。

だから、うまく愛せない、通じ合えない自分を許せないわけですよ。

そして何より重要なのは、その相手の愛が「誰に向かっていたのか」に気付くことです。

ときには愛ではなく、罪悪感が向かうこともありますが、少なくとも相手の気持ちは「誰に向かっているのか」を考えてみるといいですよ。

 

おまけ

うーん、しょうがない。ここまで書いたらその答え、書いちゃいます。

母の愛が向かう先、それは「私」です。

それはきっと間違いのない事実です。

ただ、愛があるから、うまく愛せない自分を責めてしまい、罪悪感や犠牲を向けてしまうこともあるのです。そして、相手と分かり合えない自分に価値を感じないのです。

 

私達は、愛があるから、愛せないことが嫌なのです。

愛せない自分が嫌いなのです。それぐらい誰かを大切にしたいの願っている。その自分を打ち消すことはできないのです。

それは自分だけでなく、母も、父も、兄弟も、家族も、恋人も、パートナーも、親友も、出会う人全て同じです。

つまり、あなた以外の「誰か」の愛は、「私」に向かっている。だから、相手は「あなたに愛が届かないこと」で激痛を感じ、悩み、ときにはあなたを愛することを諦めるのです。

ここに気づけるかどうかが、人生を激変させるポイントなんですよ。

 

だから「母を許す」とは、あなたが母を理解することだけでなく、あなたに向けられた母の愛を見つけることでもあります。

それを子供じみた感覚で「不十分だ」と思うことを止め、自分が成熟し、その愛を認め、自分に向けられていたことを認めることです。

そもそも僕たちが母や親をうまく許せないのは「母の愛を認めたとき、その愛にふさわしい自分でいられないから」なのです。

「私は誰かの喜びに慣れているとは思えていないし、誰からも愛されるべき存在じゃない。お母さん、あなたが期待するような、あなたの期待に答えられるような子供ではないのです」

そう自分を罰しているから、受け取れないのです。

でも、そんなことは誰も望んでいませんよね。

そもそも、それぐらい受け取れない自分こそ、母を愛している自分であるわけですから、自分を罰することがいかに意味がないことかを示しているとは思いませんか?

また、母も十分に自分を許せていなければ、母が子供を許し、その愛を受け止めることもできません。十分に自分の愛を表現することも難しくなるでしょう。

だから、母も子も、お互いを許すことによって「自分の価値を認めること」ができるようになります。

すなわち「許しは自尊感情を認め、自己価値を高めるメソッド」になるのです。

これはパートナーシップにおいても、対人関係においても同じことが言えます。

そういう意味から、恋愛やご夫婦のご相談、対人関係のご相談を受けたときに「お母さんとの関係は?」ってカウンセラーは伺うんですよね。

 

さて、今日はめちゃめちゃいろいろ書きましたけれど、あなたはお母さんのこと、どう思いますか?

あなたのお母さんはどんな人のように思います?

確かに通じ合えないけれど、でもあなたのお母さんはあなたをどう見ている人だと思いますか?

そこが全てのポイントです。

そして、その愛を理解し受け取れる自分になることこそ、心の面で「オトナになる、成熟する」ってことなんですよね。

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