恋愛の心理学

「愛したいのにうまく愛せていない」と思ったときの対処法を考える

「愛したいのにうまく愛せていない」と感じると

私は愛したい人、なんて自覚をお持ちの方がどれだけいるのか僕には分かりませんが、実際のご相談現場におりますと、明らかに

「愛したい人のお悩み」

に出会うことがあります。

愛したい人ほど、うまく愛したい、上手に貢献したい、相手のためになることを与えたい、なんて風に感じやすいものなのでしょうね。

だからこそ、その逆「うまく愛せていない」という事実が胸に突き刺さりやすいといいますか。

それぐらい「愛する」「与える」ということに価値を見ている可能性があるわけです。

そしてそれ自体はとても素晴らしいことなのです。

何らケチのつけようがないというと(どんなことにも両面あるという意味で)言いすぎになっちゃうかもしれませんが(^^;

しかし僕はあえて「疑いを向けなくともいい部分」だとお伝えしたいと思います。

ただ、うまく愛せていないと思うときほど、周囲の人から「よくやってるよ」「頑張ってるよ」と言われても、なかなか納得できないものではないでしょうか。

ついつい、「うまく愛せなかった現実」にフォーカスしすぎてしまうこともしばしば起こるのでしょう。

つまり、「愛したいのにうまく愛せていない」と感じると、どうしても自分を責めやすくなるのかもしれないですね。

そこで今日は「愛したいのにうまく愛せていない」と思ったときの考え方、自分操縦術について考えてみたいと思います。

よろしければどうぞ。

「愛したいのにうまく愛せていない」と思ったときの対処法

さて、先に最もシンプルな「愛したいのにうまく愛せていない」と思ったときの対処法をお伝えします。

それが「うまくいったことに目を向ける」です。

え?何言ってんの?うまく愛せていないから悩んで凹んでるのに?

そう思われる方もいるかもしれませんし、僕も「そうだよなぁ」って思うんですよ。

ただ、全体として(結果として)うまく愛せなかったという事実があったとしても、その中身(一つ一つのプロセス)が間違っていた、と考えるのは行きすぎだろうと思うのです。

むしろ、うまくできたことがあるから、今まで関係が続いた、という側面もあるはずなんです。

全くうまくいっていなければ、結果的に「うまく愛せなかったという結論を導くだけの関係性を持つことさえ叶わなかったのでははないか」、と僕は考えることもあるのです。

つまり、全てがNGだったわけではない、ということ。

もちろん人をうまく愛せず、上手に関われなかったことで感じる悲しみや失望、ときには罪悪感もあるでしょう。

そのお気持ちもまた大切に扱われるべき気持ちだと思います。

ただ、その感情に打ちひしがれつづけて、自分の可能性を否定したり、自分自身の努力の価値をなんの意味もなかったとしてしまうなら、それこそ「自分の愛や思い」を否定することにも繋がりかねないですよね。

だから、少しづつでいい、着実に、丁寧に、でいいので、「うまくいったことに目を向ける」ことが、うまく愛せないと感じてつらい気持ちを抱えたときの対処法の一つになります。

具体例を一つ

これは架空の話です。

Kさん(女性)は、結婚10年目。お子さんも2人おられます。まだお子さんが小さいので子育てに奮闘されてきたわけです。

ご主人は忙しい人で、いつも家にいない、帰宅時間が遅い、という生活を続けていました。

Kさんは家事や育児に奮闘される日々。なかなか夫婦の時間が取れない中でも、ご主人のためにと彼女にできることはなさってきたそうです。

が、そんなときご主人と些細な喧嘩が発展して、ラブルになり、家庭内別居、今や離婚話まで出るようになったとのこと。

Kさんはこの現実に打ちひしがれてしまい、なかば心が折れてしまいます。

意識としては「ケンカしたのは私も悪い」「しかし夫も私のことを理解していない」というものでしたが、その気持ちの奥底では

「私はこれだけ頑張ってきたのにも関わらず、何より大切にしてきた家族を守れないような人間なんだ」

という強い悲しみ、ときには自己攻撃を抱えておられたのです。

それこそKさんの思いの強さの裏返しとも言えるのですが、しかし現状のKさんはひたすら今の状況を導いたことに関する悲しみを抱えておられた、というわけです。

また、Kさんにはお母さんがいるのですが、お母さんは「あんたがしっかりしないから」と(悪気なく)叱咤激励するタイプ。

Kさんはその言葉を聞くたびに「私が悪いんだ」と感じたり「母親に対する怒り」を抱えるようにもなっていきます。

いつしかKさんはこんなことを考えるようになります。

「私は私なりに大切なものを守ろうと頑張ってきた。

でも、自分の愛情や能力が不足しているからこんな状態になった。

つまり私は愛したいだけで、ちゃんと愛せない人間。

こんな自分がこれから幸せになれるはずがない。」

それゆえに、どこか夫に従うような姿勢を見せるようなことも出てきたのですが、それもうまくいかず。

彼女はどんどんと自分自身の価値や意味を見いだせなくなってしまったのです。

「できたこと」に目を向ける理由

さて、先に書いたKさんのケース。

おそらくKさんに対してなんの準備もせず「あなたなりに頑張ってこられたこともあったんじゃないですか」とお伝えしただけでは、Kさんのお気持ちに変化は起きないだろうと僕は考えます。

また、Kさん自身も「できたことに目を向ける」という意識を持とうと思っても「それが余計に辛い」とお感じになる可能性だってあると僕は思います。

(なので、そのあたりは実際にお話を伺わせていただくといったプロセスも必要だとは思うのですよ。一人で無理はしていただきたくないなと思うのです。)

が、もしKさんがこのまま自分にできたことを見ないような振る舞いを続けたとしたら、さてどうなるでしょうか?

おそらく自分や望む幸せを諦める(妥協を続ける)か、いかに傷つかないかを考えるか、そういったことが続いてしまうかもしれません。

もちろん今は向き合いたくない気持ち、つらい気持ちがあるがゆえに、何かを諦めたり妥協したくなる、そのお気持ち自体がダメだと僕は言いたいわけではないのです。

それはまさにしゃーないことで、かつ、丁寧に自分の気持ちのケアを行っていただきたい部分なのですよ。

ただ、もしKさんが「もう一度大切な人を愛せる私に立ち戻りたい」と思われるならば、今の状態を続けることが得策とは言えないんですよね。

ときに胸がチクッとするかもしれないし、ときに「うまく愛せないという悲しみ」に出会うかもしれない。(ここが一番丁寧に扱うべきところかもしれませんが)

それでも自分が愛したこと、与えたこと、願ったこと、そして、誰かを愛するために捧げたきたこと。

いろいろなものをひとつひとつ丁寧に見つけては、その価値を受け取ることはとても大切なことではないか、と考えるのです。

うまくいかなかったことは今後の課題として。

できたことを受け取る形で考えてみる。

どちらもなかったことにはできないこと、と言いますかね。

だから、このあたりは理屈じゃなく気持ちの話なんですよ。

まず、自分が抱えている気持ちを感じられる自分でいられるように。

もちろん無理は厳禁で、受け止められない気持ちを無理やり感じることではないんです。

自分のペースで、今受け止められる分だけ前進する、そんな感じですよね。

ここで自分の気持ちを受け止めることができる分だけ、自分を取り戻せるようにもなっていくことが多いですよ。

「愛したいのにうまく愛せていない」に隠れている「無価値感」

さて、ここからはその先の話。

多く「愛したいのにうまく愛せていない」というお悩みには、いわゆる無価値感の要素が隠れている場合が少なくないのかな、と思います。

無価値感の要素の代表例が「私は何かしなければ価値がない存在だ」「私は何かしなければ居場所がなくなってしまう」という認知でしょうか。

よって、恋愛で言えば「うまく愛せていることがよく分からない」「うまく愛せているのに常にそれ以上の結果を残さなきゃ意味がない」なんて風に考えてしまう傾向があるといいますか。

それゆえに、恋愛でも仕事でも、ときには人生の目的ですらちょっと途方も無い設定にしてしまわれる方もいるようです。

「途方も無い目標設定」は手放すほうがラクでございます

いわば愛したい人、与えたい人ほど妥協を嫌う傾向があります。

「これでいい」「十分愛せている」と思おうとすると、「ホンマに?」「それでええん?」「そこで止まったら向上はないよ?」というエゴの声を聞くことが少なくないと言いますかね。

それが罪悪感や無価値感の影響によるものと気づきにくい部分が「エゴの声」という表現になっているのですけども。

だから、自分に甘いとロクなことがないと思い、自分を追い込みすぎるのです。

つまり、自分に与える課題のハードルが上がりつづける、といいますか。

もちろん高い目標設定自体は間違っていないと思うのですが、それは常に「実現可能性」のあるものでないとあまり意味を成さない場合が多いのです。

ここでの実現可能性とは「主体が自分である」という意味。

例えば、彼がいつも喜んでくれていなければ、とか、彼がこうなってくれなきゃ、とか、子供がこうなってくれなきゃ、といった「私以外の誰か」が「〇〇する」という目標設定ではない、ってことですね。

私がどんな自分になるか、が重要ということです。

なぜか愛したい人、愛することに妥協を知らない人ほど、このような主体が自分以外の人になっている目標設定しか立てない、なんて傾向もあるようです。

いわば「私が彼を喜ばせる人になる」という目標設定ではなく、「私のことは二の次でもよくて、たとえ私がどんな状態になっていても彼を幸せにできるなら何でもする」という目標設定になっている、といいますかね。

そんな風に考えている人に乗っかる相手って、やっぱり依存的な人になりません?

あなたに「もっと自分のことを考えてくれないと嫌だ」なんて感じでね。

 

また、このような目標設定は、犠牲(相手のために自分が無理をする)か、コントロール(どうにか相手に幸せになってもらうためにより良いと思われることをゴリ押しする)という結果を導きやすいんです。

そこにある思いは素晴らしいし、相手の幸せを考えられることは重要なことなんですけどね。

ただ、目的そのものが「相手が幸せでいること」になると、相手が幸せじゃないことが問題になるといいますか(相手にだって気分も事情もあるでしょうに、それがありえない、許せないことになるといいますか)

だから、実際に行動、相手との関わりの中で問題が生じやすいと言いますかねぇ。

なので、いわば「途方も無い目標設定」ではなく、実現可能性のある目標設定を行うことを僕はおすすめしています。

誰かの幸せを願うなら、その願い方にコツがあるといいますかね。

でね、ここからは衝撃的な内容かもしれませんけどね。

例えば「私が彼を喜ばせる人になる」と決めるとするでしょう?

そしてそれがある程度実現したと仮定しますよね。

そうであっても、もしかすると今の彼との関係が良くなる、とは限らないかもしれません。

えー!

って話なですけどね。

実際、良くなる場合もあれば、そうではなくなる場合もあります。

これはそもそもその彼との関係をはじめた時点での暗黙の契約(約束)が、どのようなものであったか、そしてそれが今後、二人の合意の上で更新可能かどうか、って部分にかかってきています。

例えば、相手の依存を引き受ける私、依存を引き受けてもらう彼、という関係が変わらないなら、いくら相手を喜ばせたとしても状況自体は変わらないのです。

だから、自分が彼を喜ばせられる素敵な人になったとしても、彼がずっとごねたりすねたり、という従来の態度を変えないなら、まぁ今以上の関係になることが難しくなることもありえるんです。(ごねる彼がなんともキュートで愛したいんだと思う場合は関係は続いていくと思いますよ。)

ただ、自分が「彼を喜ばせる人」「誰かを幸せにできる人」にはなれます。

そう考えると、万が一あなたが今までの彼を幸せにできなかったとしても、「彼を喜ばせる人」「誰かを幸せにできる人」にはなれる、ということなのですよ。

ただし、そのために必要な考え方が「実現可能性」なのです。

自分がどうなるか、という部分。

そう考えると「相手の幸せを願うこと」は素晴らしいことに違いがありませんが、それができなきゃ意味がないという発想はちょっとばかり無価値感をベースとした発想かもね、ということでもありますね。

だから、まずは「どれだけ自分の価値や素晴らしさをみるか」ということから入る必要があるのかな、と僕は思います。

あぁ、もちろん様々な感情の影響は別にして、という話ですけども。

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