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「愛し疲れ」はなぜ起きるのか?を考えてみた
恋愛でも夫婦問題でも、ときには家族間でも起きる「愛し疲れ」。
ここでの「愛し疲れ」とは、「愛することに疲れた」という意味でもあり、「どれだけ相手のことを考えたり愛したとしても、幸せや喜びを実感できない」という意味でもありますね。
その結果「なんか損している気がする・・・」と思い始める方もいるかもしれませんい。
この「愛し疲れ」に関するお話は、特に努力家さん、幸せや夢に向かって誠実に頑張っておられる方、また人の支援などに携わっている方からよく伺うのですよ。
一時期僕が書いていた「忍耐女子」さんもその傾向がありますね。
(ブログの検索窓で「忍耐女子」と検索してもらうと、昔の記事が出てきますよ、きっと。)
そこで、今日は「愛し疲れ」はどうして起きるのか。
そもそも「愛し疲れ」って何なのか?
そのあたりを考えてみたいと思います。
では今日のコラム、よろしければどうぞ。
愛することで疲れることはあり得るのか?
さて、「愛しているなら疲れない」なんてお声を聞くことってないでしょうか?
好きな人のことに夢中になっているときは、何が会っても疲れないでしょ?とか。
好きなことに没頭しているときは、疲れも忘れて熱中しているでしょ?とか。
それが好きならば、愛しているならば、愛すること・与えること・関わることで疲れることなんてない。
むしろ喜びや充実感を感じるだろう、という話ですね。
確かに僕も「そうだよなぁ」と思います。好きなこと、愛することと関わると心は満たされていくものですからね。
ただ、だからといって疲れない、とは言い切れないかな〜とも思います。
それは「心地よい疲れ」かもしれませんけど、自分のエネルギーを使うわけですから疲れることはあるでしょう。
ただ、愛することで「自分がなくなっちゃうほど疲れる」だとか、「全く報われない気分になる」、「自分だけ損した気分になっている」とするならば、ちょっと話は別かもしれません。
今回扱いたい「愛し疲れ」とは、自分としては愛しているのだけれど、なんだか全く幸せではないし、報われた気がしない、という感覚。
だから、心から愛することで感じる充実感とは違う性質のもの、とお考えくださいな。
「愛し疲れ」はなぜ起きるのかを考えてみた
もしあなたが「相手のことを愛したり、思いやること」で、自分がなくなるような、削れるような、損しているような気分になるとしたら。
もしかすると「自分の気持ちを相手に受け取らせよう」という意識が強くなりすぎているのかもしれません。
愛するという自分の行為は、相手に対して明確に良い形で作用していなければ意味がない。
そんな風に思いすぎているのかもしれません。
心理的に見れば「全く悪意のないコントロール」とも言えるでしょう。
ただ、「悪意のないコントロールという形になっている愛情」なんてものは、この世界にはたくさんあると思うんですよ。
だから「それは問題だからやめようよ」という話ではないのです。
そうではなく、「愛が悪意のないコントロールになっていると自分が疲れる」という話なのですよね。
「愛し疲れ」に関する一考察
僕が「愛し疲れ」に関するお話を伺うときがあるとしたら。
そこでは、誰よりも愛する対象に「自分の思いを伝えたい」という強いお気持ちを持っている方とお会いすることが多いのです。
愛する人やその対象を喜ばせたい、癒やしたい、楽にしてあげたい、笑顔にしてあげたい。
そんな優しさや思いやりが溢れている方がほとんどなのです。
ただ、もし、僕たちは何かを愛するとき
その愛した結果まで全て自分の想定した通りでなければ「私が愛したことにはならない」と感じるのであれば、たしかに疲れると思うのですよ。
どこか報われない感覚が強まったり、場合によっては相手次第の関係性をつくることにもなりかねませんよね。
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例えば
私が作ったご飯があったとして。
そのご飯は彼や夫、家族に素直に「おいしい」と言わせるものでなければならず
かつ、それは相手が十分に満足するものでなければ「ご飯を作ったことの意味はない」と思う。
なんて状態があるとしたら、まるで毎日全力疾走するように愛し続けなきゃまずいと思っているようなものですよね。
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確かに、自分の思いを受け取ってもらえないと切ないし悲しいものではあります。
しかし、いつも自分の思いが完璧な形で伝わり続けることもまたないこと、といえるのではないでしょうか。
むしろ、コンスタントに、日によって強弱が変わる思いが、継続的に伝わり続けていることにも大変な価値があるのではないでしょうか。
それは受け取る側の様子でも変わるもの
また、愛は受け取る側の様子でも伝わるか、伝わらないかが決まることもあります。
愛し合うことはキャッチボールのようなもの。
なので、相手の調子が悪ければ、相手もうまく受け取れないし、投げ返せません。
だから、こちらの思いが上手く伝わらないことがあっても、それだけで焦る必要も、思いを強くして投げ込む必要もないのです。
ちゃんと今起きていることを見る必要がある、といえます。
ただ、「愛し疲れ」を起こしやすい人って、そうはお考えになっていないことがあるようです。
自分に対して
「どれだけしんどくてもちゃんと愛さなきゃいけない(投げなきゃいけない)」
そう思っておられる方が少なくないんですよね。
そのお気持ちは素晴らしいと思うのです。
ただ、そのまま相手にボールを投げ込んでいくと
相手は「あなたを疲れさせる人」になってしまうこともあるのですよ。
よって、相手は全く悪意のないレベルで「私を疲れさせる加害者」となり、相手が見えない形で罪悪感を感じ始めることもしばしば。
だから
「できる限り愛し疲れを起こさないほうが幸せになりやすい」
そう僕は考えるのです。
「愛し疲れ」を引き起こす理由とその手放し方
「愛し疲れを引き起こす理由」は
「自分が思い描いた形で自分の愛情が相手のためにならなければ
私が愛したことにも、その気持ちに価値があったことにならない」
そんな思い込みから生じているのかもしれません。
だとすれば、その逆の感情
「私は、私が思い描いたように人を愛せないし、自分の気持ちを相手に伝えることもできない」
なんて思い込みが強いのかもしれません。
そして、それこそが誤解であり、手放すといい感情、思い込みなのかもしれませんね。
そもそもあなたが「相手のことを喜ばせたいし、そう行動したい」と思えるだけで、素晴らしいのです。
そんな自分を許せないほどに「伝わらなきゃ意味がない」と思うなら、それこそが自分に与えた罰なのでしょう。
ただ、僕がこうお伝えしたとしても
「でも、愛していないと不安」と思いません?
実は、その不安こそ「どうしてそう感じるのかな?」と扱うといい部分なんですよね。
その不安を選ばず
「私ってすごいいい人やん♡」
「ちゃんと愛せている部分もあるじゃない」
と自分を見つめ直すことができたなら
「愛し疲れ」は手放していけるものだと僕は思うのですよ。
つまり、自分に無理や過剰な行動を強いないと不安になる。
それこそが愛し疲れをつくる、いわば無価値感や無力感の作用ともいえるのです。
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