日常に使える心理学

犠牲と貢献の違いについて 〜犠牲のパターンを手放す方法〜

幸せになるためには「与えることが重要」ということは理解できます。

ただ私には与えること(愛すること)と犠牲の違いがよく分かりません。

心から喜んで与えることができればいいですが、いつもそんな気持ちになれるわけではないとも思います。

そんなときも、無理をしてでも相手のために頑張るべきなのでしょうか。

たとえ自分で納得がいかないことでも相手のために与えるべきなのでしょうか。

それは犠牲ではないのでしょうか。

もしよければ犠牲と与えることの違いについて教えていただきたいです。

ということで、今日は犠牲と与えることの違いについて少しコラムにしてみます。

ただ、犠牲と与えることの比較をすると分かりにくさが増すかもしれないと思いますので、今回は犠牲と貢献の違いという視点でまとめてみます。

よろしければどうぞ。

犠牲は罪悪感からの行動

まず、犠牲についてですが、これは「罪悪感」が行動動機となっている場合が少なくありません。

罪悪感とは「私は毒である」「私は罰されるべき存在である」「自分は不十分である」といった感覚をもたらす感情です。

つまり、犠牲が行われるとしたら「今の私が悪い」「私は罰されるべき」「自分は不十分だから」といった意識的、または無意識的な思いから行動していることが多いわけです。

例えば

「私は罰されるべき存在だから(このままでは愛されないから)尽くすべきだ」
「私は不十分な存在だから(このままでは周りに申し訳ないから)自分のことを顧みず尽くすべきだ」

そんな感じといいますかね。

ときには

「今のままでは愛されないから(相手に気に入ってもらうために)無理をしなければ、相手の言うことを聞かなければ」

みたいに思うこともあるんじゃないかな〜と僕は思います。

だから、犠牲をしているときは、尽くしても尽くしても、必死に頑張っても、ちっとも報われた感覚がやって来ません。

 

もちろんそう思うにも事情があるのだと思います。その事情は考慮されるべきことだと思うのです。

特に、犠牲は「誰かに強いられるもの」という意味を持つ場合もあって、それによってめっちゃ傷ついてしまうこともあるのです。

それこそ、そうせざるを得ない事情がある、といいますかね。

ただ、誰かに強いられているわけではないのに犠牲をするとしたら、「自分自身が犠牲的であったほうがメリット(同情してもらえる、など)がある」と感じている可能性も否定できないと思います。

それこそ罪悪感を自ら選んでいる状態と言えるのです。

ただ、もし、自分が罪悪感にふさわしい存在であるとしたら、その自分が幸せや頑張った報酬を望んではいけないわけですよね。

つまり、自分が何かを欲したり、何かしらのリターンを求める(報酬や能力の向上)ことが難しくなるのです。

その上で、自分の利益を顧みず尽くすわけですから、犠牲はやはりとても苦しいものと言えるでしょう。

貢献は自分の意志で与えるという意識から生じる行動

一方、貢献は「自分の意志でなされるもの」といえます。

国語辞書で「貢献」という言葉を調べてみると「ある物事や社会のために役立つように尽力すること」とあります。(出典:Goo辞書)

つまり、貢献とは「自分を罰するような行動」ではなく、自らの意思で物事や社会、ときにはパートナーや家族のために役立つように力を尽くしている状態と言えます。

これは恋愛や夫婦関係など「人を愛する」という場面でも同じことが言えるでしょう。

「私は愛する人の役に立つように尽くしたい」。
「私は本当に好きな会社の役に立つために尽力すると決めた」。

このような思いはまさに与える意識そのものではないでしょうか。

言い方を変えれば「貢献とは何かを補償するための行動ではない」ということなんです。

もし、自分の未熟さ、経験や知識不足、至らなさなどを感じていたとしても、貢献によってそれを穴埋めしようとしている状態ではない、ってことですね。

むしろ、今の自分のベストを尽くそう、という意識に近いと僕は思います。

もちろん自分ではうまくできないこともたくさんあるかもしれません。

ただ、それを恥や自分を罰する理由にせず、「やってみたい」「それが好き」という意欲のもと、「今の自分でできることを与える」という意識を持っている状態が貢献している状態に近いといいますかね。

もちろん熱心に物事に取り組む姿勢も備わっていると思いますが。

だから、貢献は、自分の能力や経験を深めるだけでなく、自分を許す、自分を肯定する材料にすらなる場合があるのです。

何より貢献することによって、自分が喜びを感じますし、充実感で満たされることもあるということですね。

犠牲を手放すためのポイント

ここからは、犠牲を手放すためのポイントをいくつかご紹介しましょう。

自分の不十分さを責める意識を手放す

もし、あなたが犠牲ではなく貢献意識を持って生きていきたいと願われるなら。

また、今までの自分が犠牲的な行動を取り、心が疲れ果ててしまっているならば。

可能な限り、自分を罰したり、自分の価値を認めない態度を手放していくことが求められると思います。

自分の不十分さを責める意識を手放すことです。

もし犠牲が続いているならば、おそらく自分のことをかなり厳しい目で、ときにはモノ扱いしている可能性も否定できないんですね。

その投影が跳ね返ってくると「他人も私のことをたいしたことないとか思っているんじゃないの?」と感じやすくなるんです。

だから余計に「犠牲をしないと十分じゃない」と感じるといいますかねー。

与える意識、貢献意識を持つこと

犠牲を手放すには自分の存在価値を認めながら、与える意識を持つことです。

言い換えるならば、どこか「私が関わってもいいのだろうか」「私が与えてもいいのだろうか」といった不安や自分を過小評価するような遠慮を行動動機にしないことです。

また、被害者意識、〜誰かがそういった、誰かにそうさせられた〜という意識は手放すことです。

僕は、犠牲的になってしまうこと自体、苦しいことだとは思いますが、絶対的な悪だとは捉えていません。

そうならざるを得ない事情は理解されるべきことであり、犠牲的であることを罰するような意識は必要ないと考えるからです。

ただ、あまりに犠牲が続いてしまうと「私は誰かのせいで犠牲的にならざるを得なかった」という被害者意識を持つ場合があるかもしれないですね。

この意識を持ち続けてしまうことで、自らが「自分よりも悪い存在」を作り出してしまうという側面も否定できないわけです。

ここに罪悪感を手放せない理由(自分が人を罰している)が生じてしまうので、被害者意識は、許しの方向に進めたほうが、自分自身の犠牲を手放しやすくなると言えるわけですね。

また、犠牲を手放すためには「自分の良いところを認める」という取り組みも効果があるでしょう。

ただ、僕が思う犠牲を手放すための重要なポイントは「与える意欲があるならば、不十分な自分でも構わないと思えるかどうか」だと僕は思います。

要は、犠牲って「不十分な自分ではいけない、それでは許されないという意識が強まっている時に生じるものだ」と思うのです。

なので、人によっては「自分が完ぺきにできるまでやらない、行動しない」なんて人も出てきちゃうんですよね。

「意欲を持って取り組めば、行動しているうちに自分も成長するだろう」とはなかなか思えない。

だから、常に「自分に足りない部分を補償しよう」として、無理を続けてしまうのかもしれません。

 

例えば、新しい仕事や、恋愛や結婚生活を始める際に「十分ではない自分を恥じる」人ほどつい犠牲をしてしまいやすくなるんですよね。

また、ある程度物事の経験を積んでいても、「こんなに経験を積んだのにこの程度のことしかできない」と自分を責めてしまい、犠牲を続けてしまう人もいます。

これは「常に自分が十分じゃないことを理由に犠牲して、無理が続けている」ということであり、その結果気持ちがとても苦しくなるわけです。

この繰り返しの中では、自分を許すことも認めることもできなくなってしまうんですよね。

だから、自分の不十分さ(それによる人から罰される思い)よりも、自分の与える意識や情熱、意欲を信頼することが大切なのです

「できる・できない」を意識するか
「自分が意欲を持ってやってみたいと思うこと」を意識するか

その違いはかなり大きな違いとなって現れてくるわけです。

(だから好きなことに没頭するほうがうまくいくし、自分が成長していく過程では、信頼できる人からの支援を得て素直に学んだり、人とのつながりが持つ方が楽だよ、という話なのですが。)

できて当たり前という意識を手放す

実は、犠牲を続けてきた人ほど(犠牲的にならざるを得なかった人も)「この程度のこと、できて当たり前」という表現を使うようになります。

このような意識は自分だけでなく他人にも向けられているのです。

私はこれぐらいできて当たり前(できていることの価値を認めない)。

だから、私にできることができないって、それってサボってるんじゃないの?私のことを愛していない証拠なんじゃないの?

そんな判断基準を持ち合わせてしまうことも多いんですね。

逆に言えば、「なぜ自分はできないのか」「なぜ相手はそれができないのか」その理由が全く見えていないとも言えるわけです。

なので、当たり前のように「できないのは根性が足りない、意欲が足りないからだ」といった風に思い込んでしまうわけです。

いわば、自分や他人がなにかできない理由は、相手の内面や性格などに問題があるからだ、と断定してしまうというわけです。(根本的な帰属の誤り)

これもまた「自分は不十分だ」という感覚が強いがゆえに生じること、といえます。

自分ができないことの理由を受け止めて上手に対応していたり、できないなりに意欲を持ってできることで貢献するという意識が持てていない、といいますかね。

人によっては「’できない’を克服すること」ばかり考えてしまうといいますか(できないことを克服すると自信になりますけど、僕たちにはどうしてもできないこともありますしね。)

ただまぁ、よ〜く考えてみると

「不十分な自分でもできることができない・やらない人がいる」と思うならば

「それって手を抜いてるんじゃないの?」「それってかなりヤバいことなんじゃない?」と感じてしまうかもしれませんよね〜。

ただ、それこそが「自分の価値や意欲を認めない態度」から生じている意識だとは、なかなか思えないこともあるのかな、と思います。

 

つまり

「他人ができることを自分に求め続ける意識(他人のようにできない自分を責める)」

また

「自分ができることを人に対して当然のように求める意識(できない他人を責める)」

このような意識を持ち続けること自体が

「私は自分の価値を認める気がサラサラありませんよ」と宣言しているようなものなので、自分にとってのメリットが少ない状態になるわけです。

「自分は自分でいいやん」という感覚ではなく、「自分はできる(できない人とは違う)という防衛的な意味合いでのプライド」が高まってしまう、といいますか。

なので、自分にも他人にも「できて当たり前」(やってもらって当たり前)という意識は手放す方が良いでしょうね

すると、自分の気持ちも整い、自分を好きになりやすく、いい気分になっていくという、なかなかお得な方法だとも言えるのです。

最後に

もし、自分自身が犠牲的になり続けてしんどい思いばかりするなら

「自分の価値を認める」
「当たり前という観念に縛られすぎない」
「できない自分でもいいから貢献意識を高め、意欲や情熱を持つ」

このあたりを意識するといいのではないでしょうか。

特に、私はこれがやりたい。こんな風に貢献したい。相手のために与えたい。

素直にそう思う習慣を身につけてみるといいでしょう。

すると、何かに取り組むたびに、その行動の結果を受け入れやすくなるので、取り組むといい課題も明確になりやすいすし、なにより「私、できてるやん」「私、イケてるやん」と感じやすくなるんです。

言い方を変えれば、できないことで凹みにくくなるわけですよ。

つい遠慮して自分を隠してしまいがちになる方ほど、おすすめの方法かな〜と思います。

カウンセリングを利用する
カウンセリングを受ける

本当の幸せを見つめる・見つけるカウンセリングが人気!
心理カウンセラー浅野寿和のカウンセリングのご利用方法はこちら。

カウンセリングのご案内ご予約可能時間のご案内