日常に使える心理学

自分のイメージが独り歩きすることを怖れる心理

自分自身が人のイメージの中で勝手に独り歩きする

自分のイメージが勝手に独り歩きすることで悩む女性

「自分のイメージが独り歩きすることが怖い」

意外と気が付かないことも多いかもしれませんが、しかし僕たちが怖れることの一つ。

まぁ「人の目ばかり気にしていても何もできない」とも言えるわけです。

しかし、「人に見られている」という部分を完全シャットアウトしながら生きることもまたリスクが伴うものです。

できれば、誰かに見られているという意識を、自分の背筋を伸ばすような感覚で使えればいいのかもしれませんよね。

しかし、この「人に見られている」という部分をとても苦手に思われる方もいらっしゃるようです。

例えば

対人関係の中で大変嫌な思いをした
自分にだけ責任や罪を押し付けられるような経験をした
自分自身が隠したい気持ちが強い

という場合、「人にどう見られているか」と思うだけで怖くなったり、不安を感じることもあるかもしれませんね。

その結果

「自分自身のイメージが勝手に独り歩きすることを怖れる」

ようにもなることがあるのです。

だから

何事も前に出れない
やりたいことに取り組むことに躊躇する
人の目を意識しすぎて不自由な感覚を覚える

なんてことも起きると思うのです。

ということで、今日は「自分のイメージが独り歩きすることを怖れる心理」についてコラムにします。

よろしければどうぞ。

自分のイメージが独り歩きすることを怖れる心理

僕たちは、自分のイメージが他人(世間)の中で独り歩きすることを怖れ始めると、どうしても自分自身の言動を制限しはじめることがあります。

それが、行動や発想への制限へとつながり

「やりたいことがあっても諦めるしかないと感じる」
「急に人がどう思うかが怖くなる」

なんてことも起こることがあります。

また、何事においても誤解されることが怖くもなりやすいです。

「自分自身のことを正確に分かってもらえないと嫌だ、不安だ」

と感じるようになりやすいといいますか。

その結果、頑固になったり、正しさにこだわったり、共感のなさにイライラしたり、人の気持ちをコントロールしたい欲求に駆られるようになることがあります。

このような不安は、誰かに傷つけられる、責められるような経験をした方が抱えやすいとも言えるんですよね。

だから、ここでは

自分自身だけでなく他人、時には世間というレベルにまでの不信感を抱える

なんて場合もある、という部分が僕の実感です。

誰も何かを強く疑いたくなんてない。

のでしょうけど、しかしつい疑ってしまうといいますかね・・・。

それもこれも「これ以上痛い目にあいたくないから」でしょうから、それもまた理解されるべきことなんだろうと僕は思うのですけどね。

自分自身がよく見られていることに反応できなくなる

ただ、自分のイメージが独り歩きすることを怖れすぎてしまうと

自分自身が他人からよく見られている場合にも、それが理解できなかったり、うまく反応できなくなる、なんてことが起こります。

例えば

人から褒められたり、すごいね!と承認されても「大したことないですよ」とガチで言ってしまう、とか。

自分自身の良さを受け入れようと自己承認してみても、なかなか自分を認める気にならなかったり、褒めてもちっとも嬉しくなかったり。

そういった人の中には、例えば

「自分を褒めたって、他人から勝手なこと言われたり、勝手なイメージや思い込みで解釈されるなら、別に自分のことなんて適当に扱っていても同じじゃないか」

ぐらいの痛みと言いますか、失望と言いますか、無意味感が横たわっている場合もあるようですよ。

だからでしょうか。

なかなか素直な自分のままでいられなかったり。

実は、自分が誤解されるような言動を取っている場合も少なくない、なんて書くと嫌な気分になるかもしれませんが(^^;

自分が承認されたり、愛されたり、理解されることを諦めることで、逆に更に誤解される態度を取ってしまう、なんてこともあるようです。

このような態度によって、更にネジ曲がった本来の自分ではない自分が他人に伝わり

更に誤解され、失望する、というつらいループも実際に起こることがあるようで・・・。

これもまた切ない話でもあるんですけどね・・・。

自分のイメージが独り歩きすることの怖れが生じる理由を考える

そもそも、自分自身のイメージが勝手に独り歩きすることを怖れるのは

自分自身が隠している部分を見られることが怖かったり
何もしているつもりはないのに他人から嫌われたり
自分の言動を悪い風に捉えられて批判にさらされたり

なんて意識の向こう側で

実は自分自身が「理解してくれない人を責める気持ち」を持っている、ということでもあるわけです。

ただ、ここで誤解してほしくないことは

「理解してくれない人を責める気持ち」を抱えている事自体が悪いと考えすぎる必要はないだろう

と僕は考えます。

人を責める気持ちを抱えていることで、自分を肯定しづらかったり、嫌な気分になることがあるわけですけども。

おそらくそのような気持ちになるということは、そう感じるだけの何かが起きていた可能性があるわけです。

今までに、傷ついたり、つらい気持ちを抱えたのかもしれない。

だとするならば、その気持ちは丁寧に扱われるべき部分だと僕は考えています。

他人をネガティブに見ている部分が跳ね返ってくる

ただ、「理解してくれない人を責める気持ち」など、他人をネガティブに見ている部分が残っていると

この責める気持ちが投影となって跳ね返って、あたかも他人から自分が責められる気持ちになりやすくなることもあります。

このとき

「人は自分のことをよく見ない」

と感じている可能性も考えられるのですよ。

この否定的な思いが跳ね返ってくることで、自分がより他人から誤解されたり、責められると感じやすくなる、という部分がしんどいところなんですよね。

自分のイメージが独り歩きすることの怖れ、どう乗り越える?

先にも書きましたが、人は見たいように物を見る生き物。

だから、人の目、感じ方、考え方、価値観などが違う以上、すべての人にいつも本当の自分を理解されることはなかなかないことのかもしれません。

が、例えば、身近な人、仲間、恋人、家族などには、本当の自分を理解される可能性だって十分にあるのです。

だから

自分のイメージが独り歩きすることの怖れを乗り越えるときって

まず、今の自分の気持ちを大切に扱いながら。

今、分かり会える人との関係を大切にしたり。

まず身近な人からでいいので、自分自身が人を理解する側に回る、なんてことを進めるといいですよね。

逆に

人のことを悪く思いすぎたり

「みんなにどう思われるだろう」と大きく考えすぎてしまうと、

どうにも手がつけられなくなりやすい、といいますか。

ある程度、対象を絞って、いい人間関係を作ることを考えていくならば、まだ取り組みやすいでしょう。

人を理解する・与える側に立ってみる経験を積んでみるという方法もあります

特に「自分が人を理解する側に回る」という経験をすることで

「他人も自分と同じようにこちらを理解してくれる場合がある」

という実感を得やすくなるんですよね。

僕たちの世界で言う、与えた分だけ受け取れる、という話でもあるんですが。

例えば、自分が実際に経験したこと、苦労した経験がある部分では、同じ行動を取っている人の気持ちも推測しやすいし、共感しやすく感じると思いません?

確かに、自分を隠したい気持ちが強い場合は、人を理解する側に回っても、なかなか自分が理解されるとは思いにくい場合がありますけども。

そうであっても、信頼できる人との関係をより良いものにしていくならば、少しづつ自分が理解されていること実感できる場合もありますのでね。

自分自身が人に対する良いイメージを持てる分だけ、この怖れは手放しやすくなるとも言えると僕は思いますよ。

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