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罪悪感からではないモノの見方をすると、世界の見え方は変わる
「罪悪感からではないモノの見方」
これは「どこにも悪者を作らない」という視点で物を見ることを意味します。
僕たちは判断する生き物であって、何がよくて何が悪いかという視点で物事を見ることがあります。
もちろんその判断も必要だから行うわけで、間違っていると言えるものではありません。
ただ、あまりに善悪判断が強くなりすぎることで、常に「どこかに悪者を作ってしまう」という状態に陥ることがあります。
例えば、私が悪い、相手が悪い、社会が悪い、などと。
その結果、まるでトランプのババ抜きのジョーカーのように
誰がジョーカー(悪者)を引き受けるのか、と戦々恐々としたり
そんな役回りは引き受けたくなくて仲間や家族を利用したり
引き受けたくないけれど、自分が損すればいいのかという諦めがでてきたり
そんな怖れに満ちた世界を生きるようになることもあるんですね。
だから、人は信用できない、自分を信用できない、自分を隠しながら生きるしかない、と思うようになることもしばしば。
そんなお話を伺う際に
「罪悪感からではないモノの見方をすると、世界の見え方は変わるかもしれませんよ」
なんて話をさせていただくことがあるのです。
今日はそんな「罪悪感からではないモノの見方」についてのコラムです。
どこにも悪者はいないという考え方
さて、「罪悪感からではない、どこにも悪者がいないという考え方」は、一つの許しのあり方を示しています。
言い換えるなら「そこに愛や別の目的があったとしたら」という考え方ともなります。
逆に罪悪感とは、人や他の誰かではなく、「自分が悪い、毒だ」という感覚をもたらす感情です。
※罪悪感に関する解説は次のページにありますので参考になさってください。
ただ、今日の話は言葉の解説だけでは非常に分かりにくいので、具体例を使って解説します。
子供に厳しく接しすぎてしまうという父親の事例
「つい、息子を見ているとイライラして厳しく接しすぎてしまう」というお悩みを持ったお父さんがいたとしましょう。
頭では「子供を理解しよう、息子に優しく接しよう」と思っているけれど、ついつい厳しい言葉をかけたり、時には叱りつけてしまう。(暴力ではなくね)
そんな様子を見かねた奥さんから「自分を見つめ直してみたら?」とも言われる始末。
そんなお父さんがいらっしゃったとしたら、僕はきっと愛情深い部分をお持ちなのだろうと見つめることがあるのです。
そもそも、好んで子供に嫌われようとする父、なんてものはなかなかいないと思いません?
できれば好かれたいでしょうし、どこか尊敬される父でありたいと願うものではないでしょうか。
が、もし息子さんをやめようと思っても叱りつけてしまうとしたら。
それは「自分からわざわざ悪者になっている」と見ることもできるのです。
父親は子供から嫌われることも仕事の一つ、なんて考え方もありますし、あえて嫌われ役を引き受けているとも考えられますけどね。
ただ、実際に厳しい態度ばかり示せば、子供から酷く嫌われ、よりコミュニケーションが難しくなるでしょう。
そんなとき、「怒ってばかりな父」という捉え方ではなく
「そのお父さんは自ら悪役を選んでいるとしたら、その理由は何か」
と考えてみる。
この視点が「どこにも悪者を作らない(そもそもいないはず悪者が存在しているのはなぜだ)」と考える視点なのです。
彼や夫に尽くしすぎてしまう女性の事例
恋愛や夫婦にまつわるご相談で多い「尽くし過ぎてしまう問題」。
愛することの価値を知る女性にとって、愛せないことはこれ以上ない苦しみ。
だから、どんなに辛くても、相手に振り回されても尽くしてしまう。
そのお気持ちも個人的には分からなくはないのです。
ただ、そんな尽くす自分の裏側に「嫌われたくない」「気持ちが届かなくなることが嫌だ」という不安もあるのかもしれません。
で、です。
「そんな不安を抱えるのは自分に自信がないからだ(だから尽くしてしまうのだ)」とお考えの方も多いかもしれません。実際にそんなケースもありますよ。
ただ、その考え方って自分を悪者にしているわけですよね。
「自信がない私が悪いのだ」と。
このとき、尽くされる側、振り回している側もまたひどい人だ、と見られやすい。
この考え方を続けてもLose-Loseの関係を作ってしまう可能性は変わらない、ようですよね。
だとしたら、ここでは
「どうしてわざわざ自分が悪い、という悪役(尽くす側、自信がない私)を自らに課しているのだろう?」
と考えることで、次に進めることがあると思うんですね。
自分が犠牲をしなければ誰かがつらい思いをするという怖れ
とかく愛の深い人は
「そもそも私にできることは悪役(愛されず、負担をかけられる側に回ること)だけだから」
なんて、無力感から生じる犠牲をしている場合も少なくないようですよ。
これは罪悪感そのものです(無力感も罪悪感の一形態ですからね)
もっと言えば
「自分が悪役(尽くす側、自信がない側)にいないと、他の誰かがそうなってしまう」
という、まるで罪悪感のロシアンルーレット的な発想をお持ちの方もいるとかいないとか。
ただ、「誰も悪くない、どこにも悪役を作らない」という視点で物を見れば
尽くすことも、犠牲も、ロシアンルーレット的思考も
「そもそも必要ないじゃん」と思えるはずなんですよね。
物事がうまくいかないとき、僕たちは悪者を欲しがる
僕たちの日常の中で起きる「うまくいかない」という現実。
それはとても辛い感情を伴うものかもしれません。
そして、僕たちは物事がうまくいかないとき、僕たちは悪者を欲しがる、つまり「うまくいかない何らかの原因」を求めるのです。
特に
「うまくいかない原因がわかるだけで安心できる」
なんてことも多いですから、ついついこのような思考に陥りやすいともいえます。
もちろんその原因を「自分」にかえす場合もあれば(自分が悪い)
他人や自分以外の何か(誰かが悪い)と感じる場合もあるでしょう。
が、その「悪い」という感覚を感じることはあるとしても、何かしらの悪者を作ってしまうと
「自分が悪いか、相手(自分以外の何か)が悪い」
という思考に陥ってしまって、非常にスッキリしない、迷い道にハマってしまうことも少なくないようです。
物事がうまくいかないとき、僕たちは幸せになる方法が欲しいはず
そんなとき、ぜひ思い出していただきたいことがあるんです。
僕たちは「物事がうまくいかないときこそ、幸せになる方法が欲しいはず」と。
もちろん、物事がうまくいかない原因を突き止めて検証することは必要です。
が、物事がうまくいかないことで自分や誰かを裁いたところで、幸せになることは難しい、と思いませんか?
もちろん自分自身がミスをしたり、誰かを傷つけたなら反省や謝罪は必要でしょう。
逆に、誰かに傷つけられたとき、相手に怒りを覚えることもまた、自然なことと言えるかもしれません。その気持ちも丁寧に理解されるべきことだと思います。
ただ、その気持ちの延長線上に「何かしらの悪者」を作ると、うまくいかない現状を改善することは難しくなります。
起きた出来事と、人の内面的要素をくっつけて考えすぎると問題が起きやすい
昔の人は「罪を憎んで人を憎まず」といいました。
これは「犯した罪は悪いから罰するべきだが、罪を犯すには事情もあったのだろうから、その人まで憎むのはよくない」という考え方です。
これを僕なりに解釈すると
「起きた出来事と、人の内面的要素をくっつけて考えすぎると問題が起きやすいよ」
ということなんですね。
事例1
例えば、あなたがつらい失恋を経験し、自信を喪失し、恋愛することが怖くなったとしましょう。
つらい失恋で傷つき、自分を信じられなくなってしまうことは起こり得ることです。
だから、丁寧に自分の感情を整えていくことをオススメします。
ただ、もし自信を失って「こんな自分は愛されない」と思いこんでしまうとしたら
それは「自分で自分を悪者にしている」ということになります。
稀に、その態度を使って自分を傷つけた人への怒りを示している人もいますよ。(その気持ちもわからなくもないのですが)
ただ、自分を悪者にしても、誰も救われないですよね。
何らかの失恋に至った事情はあるにせよ、あなたがつらい思いをしたということと、あなたが悪いということはイコールではないのです。
だから、自分を悪者にしたり、蹴飛ばすことをやめて
「どこにも悪者を作らない」と考えるようになれると、次に進めるようになることが少なくないんですよね。
事例2
例えば、あなたが辛い恋愛を続けたことがあって、その反動で次の彼にひどい仕打ちをしてしまい、その後悔が拭えなくなった、としましょう。
たしかに彼に罪はないですよね。そして、あなたが起こしたことは確かに彼に対して不誠実だったかもしれません。
だとしたら、あなたはその自分の行動から反省をして次に活かすことが求められているのでしょう。
つまり、過去のできごとを使って自分をさばき続けるのではなく
本当に自分が表現したいこと(人を愛すること)によって、その彼との間で起きたことの意味は見いだせるのでしょう。
ただ、このプロセスは加害者意識に触れることになるので、ちょっと苦しいですけどね。
そうであっても自分や何かを悪者にしているうちは、自分自身が幸せを受け取る気にすらならないでしょう。
だからこそ、「罪悪感からではないモノの見方」をすることで、あなたが見ている自分、そして世界の見え方は変わるといえるんですね。
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